「悲しやな国に捧げん子孫なし」
有名な「産めよ殖やせよ」は、近衛内閣の閣議決定で策定された「人口政策確立要綱」(昭和16年)以降のスローガンだが、それ以前から、子どもをつくって御国の為に捧げるのが母の使命であるかに謳う思潮は広がっていた。
この時期の子沢山家庭への表彰行事や、例えば5人の子どもをすべて軍人に育て上げた「軍国の母」の事例は、これまでも拙著で紹介してきた。
では、子どもがいなかった家庭、とりわけ女性は、どんな思いでいたのだろうか。
大日本国防婦人会本部の機関誌『日本婦人』第51号(昭和13年4月)に、同会福井地方本部に届いたという投書が紹介されていた。当時国防婦人会は軍用飛行機献納運動を展開しており、その醵金に添えられていた手紙だという。
私は如何なる縁にしか御国の為に尽す一男どころか一女だにもなき石女にて、君国に対し不忠の極みと、誠に嘆かはしく、身も破り裂けん思ひにて日を暮らして居ります。同封涙ほどにて誠に御恥ずかしく存じます。けれど主人の斬髪〔散髪のこと〕を自分にさせて頂き、その代を月々貯へ又本年新年会を中止の代とであります。何卒飛行機のお手伝ひの一端なりともお加へ下されば、こよなく嬉しく存じ上げます。
悲しやな国に捧げん子孫なし せめて貯ふ涙心を
(山村国防婦人会分会の一員 石女)
「石女(うまずめ)」とはもはや死語だが、子どもができない女性への蔑称だ。ペンネームとはいえ自ら「石女」を名のる辛さはいかばかりかと思う。子どもがいないから夫の散髪代やつきあいも控えて、献納金をためていたわけだ。
現在においても「子どもはどうした」「孫の顔が見たい」プレッシャーは耐えがたいものがあるが、当時はさらに国家的要求という巨大な圧力も加わっていたわけで、これはすさまじいものであったのだろうと思う。