原子力村のお姉様たち



 2001年から2008年まで、原子力委員会は「市民参加懇談会」という公開ヒアリングを合計34回にわたって行った。
 目的は、「「原子力政策の決定過程における市民参加の拡大を通じて、国民の理解をより一層促進するため」に、「原子力政策における市民参加の促進のための方策」及び「原子力政策に対する国民理解の促進のための方策」について、調査、審議する」ためだという。
 しかし、開始時期から見ても明らかなように、これは、高速増殖原型炉「もんじゅ」の2次系ナトリウム漏洩事故〜東海村JCO臨界事故にいたる一連の大事故をうけて、大慌てで設置したもの。
 実際、内閣府原子力政策担当室が出したペーパーでは、「一連の事故、不祥事によって国民の原子力に対する信頼が大きく損なわれ」たという危機感から、「今後とも、国民の多様な意見を踏まえて原子力政策決定を行っていくために、政策案に対する国民の意見を広く求めるなど、政策決定過程に対して国民の参加を促す」と書かれている(内閣府原子力政策担当室「原子力委員会 市民参加懇談会」の活動について」)。
 要するに「市民参加」でご意見拝聴したことをもって、国民の意見をとりいれた原子力政策という看板をアリバイ的にでっち上げようとしたものだということを、原子力政策担当室の役人自身が自認しているわけですね。
 こういう「タウン・ミィーティング」っぽい、昨年話題になった「やらせ××」にも似た白々しい催しものが当時流行ったなあ。
 で、この「市民参加懇談会」、メンバーは次のような陣容であった。

○担当原子力委員
木元教子 主任
森嶌昭夫 主任補佐(平成16年1月まで)

○専門委員
碧海酉癸 消費生活アドバイザー
浅田浄江 WEN(ウイメンズ・エナジー・ネットワーク)代表(平成18年9月から)
新井光雄 エネルギージャーナリスト(平成15年8月から)
出光一哉 九州大学大学院工学研究院エネルギー量子工学部門教授(平成18年9月から)
井上チイ子 生活情報評論家(NPO法人くらし、環境、エネルギーネット理事長)
岡本浩一 東洋英和女学院大学人間科学部教授(平成15年8月から)
小川順子 WIN−Japan会長
小沢遼子 社会評論家
加藤秀樹 構想日本代表
蟹瀬誠一 ジャーナリスト、キャスター(平成15年8月から)
吉川肇子 慶應義塾大学商学部助教
高木美也子 日本大学総合科学研究所教授(平成17年6月まで)
露木茂 フジテレビ特別アドバイザー(平成15年11月まで)
東嶋和子 ジャーナリスト(平成15年8月から)
中村浩美 科学ジャーナリスト
松田美夜子 生活環境評論家(廃棄物とリサイクル)
宮崎緑 千葉商科大学政策情報学部助教授(平成15年8月まで)
屋山太郎 政治評論家(平成14年12月まで)
吉岡斉 九州大学大学院比較社会文化研究院教授
(肩書きは市民参加懇談会構成員当時のもの)
出所:内閣府原子力政策担当室作成「「原子力委員会 市民参加懇談会」の活動について」2009年6月9日

 こういう行政絡みの懇談会に必ず出てくる、妖しい肩書きの人物妖しいNPO役員を掘っていくと、かならずもっともっと面妖な御用の世界につきあたる。
 この中の「小川順子 WIN−Japan会長」というのを探ってみると、なかなか興味深い団体にたどりついた。

【小川委員】 WIN−Japanの小川順子と申します。皆さま方の資料には「WIN」というのが書いてありますが、「Women In Nuclear」という原子力の仕事をしている女性のグループです。ネットワークのようなものです。私は原子力広報の仕事をしておりまして、コミュニケーションの専門職として働いています。今は原子力発電会社で働いていますが、以前はウランの燃料工場で、現場に皆さま方をご案内するという立場で働いていました。柏崎刈羽原子力発電所が運転開始するときには、たくさんの刈羽村の皆さまもお迎えしましたので、会場にいらっしゃる方にも、横須賀市のウラン燃料工場でお会いしたかも知れません。
 私は生まれも育ちも横須賀ですが、横須賀と言いますと、今ちょっと話題になっていますが、極東最大のアメリカ海軍基地があります。国防のために海軍基地がふるさとにあるわけですが、そういう意味で、国のエネルギー政策の最前線で刈羽の皆さま方が原子力発電所を受け入れてくださっているというのと、横須賀の立場は、一部相通じるものがあるのかなと考えています。
2002年1月15日、市民参加懇談会第3回「市民参加懇談会inかりわ」議事録より

 市民参加懇談会の最初の地方ドサ回りは、東電柏崎刈羽原発がある新潟県刈羽郡刈羽村 老人福祉センター大集会室からはじまった。
 これまた言うまでもないことだが、刈羽村では2001年5月27日に柏崎刈羽原発でのプルサーマル運転実施の可否を問う住民投票が行われ、反対派が勝利した。
 当時の村長をはじめ東電・国はプルサーマル賛成派が勝つと踏んでいたらしいが、まさかの惨敗に終わり、東電は住民投票の翌日から刈羽村に入り込んで猛烈なオルグを開始した。この巻き返しの一環として、原子力委員会の市民参加懇談会が、ここ刈羽村で開催されたと見られる。


 さて、この小川順子女史の発言、WIN-Japanという聞きなれない団体をどんな人がやっているのかがよくわかる自己紹介だ。太字にした部分とか、なかなかすごい感性だ。
 「横須賀市の核燃料工場」とはグローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン(GE、日立、東芝合弁会社)の核燃料成型工場のことだろう。ときどき微量の放射性物質を漏らしちゃっていたその工場で広報のお姉さんをやっていた小川女史が、今は日本原電にいるというのだから、この原子力業界の転職事情の一端もかいま見えるw


 このWIN-Japan(「WiN(Women in Nuclear)は、原子力放射線利用の仕事に携わる女性の国際的なネットワーク」)、公式サイトを見るといろいろ楽しくて泣けてくる。


 東電ピーアール株式会社電力館案内部に所属していた江崎久美子女史、俺、以前電力館に出かけていって、この人から原発関係のパンフを束でもらったことあるんスよ。
 「お客様とのやりとりを重ねるうちに、「原子力は奥深くて面白い」と興味が強くなってきた」という江崎女史、「発電所を見に行く機会がない人たちに原子力について関心を持っていただきたい」という思いも虚しく電力館は閉館。地下に変電施設があるので取り壊して売却するわけにもいかず、出入口をフェンスで閉ざしたまま、東電原子力文化の廃墟と化しつつあるわけですね。ああ、江崎女史は今、どうなさっているのでせうか(棒読み)。

 こうした会員のお姉さまたちの意気込みは、福島第一原発事故でどう変わったのか?というと、あんまり変わってないみたいです。
 2011年3月20日付け小川順子会長名で出された声明によると、

 WiN-Japan 会員においても東京電力?、東北電力?、日本原子力発電?、日本原燃?をはじめとして被災地の原子力施設で、与えられた使命を必死で遂行しております。またそのほかの会員もそれぞれの地域で、一般国民の不安な気持ちと向き合いながら、やるべき責務を懸命に果たしております。
現時点では、WiN-Japan としては、関係機関の発信情報やメディアから得られる情報をもとに、身近な人々への適切な助言、社会へのわかりやすい情報発信などがなすべきことであると考えております。
 今後、今回の原子力災害の概要が明らかになってきた時点で、知見と教訓を十分分析し、WiN-Japanとして日本の原子力平和利用、特に社会での相互理解活動を中心とした活動に積極的に取り組んでいきたいと思います。
 この広域激甚災害により、今までに醸成されてきた原子力への信頼や、これからのエネルギー供給に原子力をどのように位置づけるかなどについての国民の皆様の感情は、過去になく厳しいものになると覚悟しております。原子力の仕事に誇りを持って歩んできた私たちWiN-Japan の会員は、これまで何度も試練を経験し、克服してきたつもりですが、今は、虚心坦懐に事態を受け止め、原子力発電と人類の未来のあるべき姿を模索しつつ、新たな決意で取り組んでゆきたいと思います。

 別に「新たな決意で取り組んで」もらっても困るんですが。自分たちが広報お姉さんとして何を言ってきたのか、少しは振り返ってはいかがですか。
 それから一年経って、WIN-Jaoanのメンバー4人が『婦人公論』2012年3月7日号で、「女性技術者・研究者座談会 福島第一原発事故に、私たちは何を思い、何を考えたか」という座談会に登場、いろいろ香ばしい発言が続くが全文が読めるのでぜひご覧ください。

 そもそも「原子力の仕事をする女性たち」会員各社は、クライアントとメーカー、元請けぐらいまでで、肝心要のアトックスとかの人すら入ってないのは、この団体の性格をよく示している。
 いかにWIN-Japanの美しいお姉さまたちが、微笑みとともに「子どもたちに明るい未来を残すためにがんばります」とか、「プラント設計に福島の教訓を生かします」とかと語っていても、パイプから漏れた冷却水をウエスで拭きとるのは、これまでもこれからも、四次・五次下請けのおっさんたちなのだ。
 
 2011年には出てこなかったような、原子力業界の開き直り発言がチョロチョロとマスコミに出始めている。各種原発PR団体のWEBサイトを見てみると、各地の原発への見学会も再開され始めている模様だ。「全原発が稼働停止」という状況の中で、以前紹介した最近の「原発推進本」といい、原子力村からのバックラッシュはすでに開始されていると言えよう。



原発崩壊

原発崩壊

樋口健二報道写真集成―日本列島’66‐’05

樋口健二報道写真集成―日本列島’66‐’05