支離滅裂な消毒芸の哀しみ

「消毒しましょ」のブログ主の人がご丁寧なコメントを書いてくれたので、ひとことだけ申し述べます。

なんとも底の浅い、如何にもバカが言祝ぎそうな戯言だ。「読書」が「個人的な行為」に留まるのは「本質的」な部分においてのみであり、やがてそれは社会性を帯びる。

なんか残念な反論ですなあ。読書行為そのもの――すなわち本と読者の間に成立する関係をとりだして(=抽象して)述べようとしているのがもともとの論旨。その主客が置かれている社会性をさしあたり捨象しつつ、本質的な/もしくは読書行為の(論理的な)原基形態を明らかにし、そこから規制やら市民団体やら小市民の健全な性的嗜好やらの現実的な諸モメントを本質的なものからとらえかえそうとしたのだが。どうも僕の展開が不十分であったのかな。
本質的なモメントと「社会性」を帯びるところの現実的なモメントとが、歴史的にも論理的にも同時的に併存しているということなどちょっと考えればわかることなのに、「消毒」氏は「やがてそれは社会性を帯びる。」と書いちゃったものだから、あたかも「本質的なもの」→「現実的なもの」というふうに歴史的過程にたおして彼においては観念されていることがわかる。それは全然的外れなのです。悲しいことに。
しかもその例証が――

社会主義国家の成立がマルクスを基盤としていたことを思い浮かべるだけでそれは証明できる。

――ときたもんだから、さっぱりわけがわからない。そうとう斟酌して考えると、マルクスの「本」を読んだ人が、それに感化されて「社会主義国家」(これまた不思議なスターリン的カテゴリだが)を成立させたってことが言いたいのかな?? 読書行為という実践と、革命運動という実践とが直結するのかな? えらく単純な人間たちですねw

どうやらこいつは人が「歴史的・社会的な制約を帯び」ることを悪と看做すアナーキストのようだ。

このへんから支離滅裂ですな。僕はアナーキストではないし、しかもアナーキストは「歴史的・社会的な制約を帯びる」ことを否定したりしないし。さらにいえば、そんなことを「悪」と見なしてもどうしようもないし。もしかして俺が知らないアナーキストの誰かがそんなことを言っているのかな?

つまりは、強姦やChild Abuseを肯定しているということになる。

ワォッ、かなり胸がキュンとするフレーズですね。一度言われてみたかった。消毒氏の論理の飛躍は「市民団体の人」に似ているねっ!

「ウチの子どもに」そんなものを読ませて、どんな良い効果があるのかをキッチリ説明してもらおうではないか。こんなことを言う限りは、それが出来るんだろうな? ああん!?

これは子ども自身の趣味の問題であります。巨乳熟女が好きな子どもに、ロリ系を読ませるのは良くありません。本人の趣味嗜好にもとづいたものを自分で買うのであれば良い効果は大ありです。子どもの審美眼を形成する上でも、体験的に「よい本」「悪い本」に直接ふれて、美しいものや醜いもの、リアルなもの・妄想的なものを判断できる主観を形成するためには避けて通れないことでしょう。
私自身のことについていえば、小遣いはゼロであったかわりに、書籍購入についてのみ認められ(金額的制限はあったものの)内容については一切自由とされていましたから。我が子についてもそうあるべきだと確信しています。
くりかえしますが、これは子どもの趣味の問題であります。例えば子どものベッドの下から嫁さんが発見しやがったエロ本について子どもと議論しなければならないことになったならば、その趣味の洗練の度合い、審美眼の成熟の度合いが主題となると思います。まっ、彼にとっては、頭ごなしに怒鳴られるよりもそっちのほうが恥ずかしいかもしれませんが。