山川菊栄『幕末の水戸藩』につけられた不可解なコメント

 先週から山川菊栄の『覚書 幕末の水戸藩』を読み耽っています。
 彼女の水戸藩ものは猛烈に好きで、『おんな二代の記 (東洋文庫 203)』『武家の女性 (岩波文庫 青 162-1)』からはじまって著作集まで買い込んでしまいました。
 「天狗さわぎ」を前後する水戸藩内の「水戸イデオロギー」を軸に、烈公=徳川斉昭公や藤田東湖、会沢志斎らの等身大の実像など興味深いエピソードが満載であります。
けれども、山川菊栄の「水戸」三部作が本当に面白いのは、幕末の水戸藩士がどれほど貧乏であったのかについてのリアルな聞き書きと、彼女の軽妙かつ見事な筆致・文体にあります。例えば、下級武士の家では綿入れの綿を百年くらい使い回してどんどんツギをあてながら着てた……とか。こんな話がいくらでも出てくるので、何度読んでもまったく飽きません。
 これに比べれば、山本周五郎の『日本婦道記』なんか、所詮は軍国美談に毛が生えたようなものに見えてくるわけであります。
 『武家の女性』の初版(昭和18年刊)も手に入れたのですが、序文の末尾には「ご配慮をたまわりました柳田国男先生……」とあります。鶴見太郎著『柳田国男とその弟子たち 民俗学を学ぶマルクス主義者』(人文書院)の中に、山川菊栄も出てくるかも知れません。もしもそうであれば、この時期、柳田門下には山川菊栄と福本和夫が並んでいたいたわけで、まったくもって面白いことになっていたわけですな。

 で、この『幕末の水戸藩』は今でも普通の書店で手に入るのであろうかとamazonで検索してみると、岩波文庫版が容易に入手できるみたいですね。で、おったまげたのが、この本についての「聴雪」なる人物のコメント。

天皇や幕末尊皇派は、戦後の左翼教育等によって、悉く貶められてきました。
水戸は、尊皇思想のさきがけとなり、水戸の学問は吉田松陰西郷隆盛をはじめ、幕末尊皇の志士に決定的な感化を齎しました。
故に戦後の左翼史観からは、忌避されました。東京裁判史観や司馬遼太郎史観に覆われた日本の戦後は、古代から連なる日本の真の歴史との大きな断絶を齎しました。現代日本の抱える問題の多くはここに源があります。日本の歴史が見えなくなっているのです。水戸の学問とは何か。幕末とは何か。明治維新とは何か。そのことは、近世日本の歴史の核心であり、またそのことが分からないと現代日本を考えることは出来ないのです。

 なんか紋切り型で、前半はつまらない。いうまでもなく水戸国学は重要だが、明治維新イデオロギー的背景はそれだけではないわけですね。
 あんまり関係ナイかも知れないけど、ごく最近、常東農民運動や梅本克己〜大池文夫・いいだももらの旧制水戸高グループの関係についての資料を拝見する機会があったのだが、水戸の歴史と風土が彼らの反日共中央的なメンテリティに大きく影響を与えているように思われてならない。水戸国学を右翼日本主義の専売特許と思いこむのは、いささか浅はかではないか?

そしてその精神は、西郷の西南の役と繋がり、或いは近代戦争の特攻隊にも繋がっているのです。

……すごーく不可解な一文で、ここでハングった。特攻隊……つながんねーよ。つーか、現代の水戸シンパというのは、こんなに悲惨な水準なのか?? つうか、文章のどこにも天狗党が出てこないのはなぜだ? こいつらの業界では、天狗さまはなかったことになってんのか? 水戸学を大讚美するのもけっこうだが、「聴雪」くんは檄派と鎮撫派どっちにシンパシーをもっているの?


覚書 幕末の水戸藩 (岩波文庫)

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柳田国男とその弟子たち―民俗学を学ぶマルクス主義者

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水戸イデオロギー―徳川後期の言説・改革・叛乱

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