靖国神社の聖母子像(2) 転生する聖母子
写真は「主婦之友」昭和16(1941)年5月号口絵に掲載されたもの。クレジットは鬼頭鍋三郎・筆とある。
下につけられた文章は西條八十によるものだ。
輝く対面 西条八十
無量のおもひ、額づけば
森厳たりや、神殿(ひもろぎ)の、――
ああ、ここにこそ、なつかしの
良人の御霊住みたまふ。涙にぬれし想ひ出も
いまは痕なし、――恙なく
嵐の中を生きぬきて
日本の母は笑みて立つ。ふたりの吾子もすこやかに。
身は教壇に勇ましく
鍛ふ未来の国柱、
君、みそなはせ、この姿。
「涙にぬれし想ひ出」は今は亡き夫への思いだろうが、「嵐の中を」生き抜くと、突然「日本の母は笑みて立」ってしまうのだから驚きである。この笑みは、彼女が教師として「鍛ふ未来の国柱」を日々育成していることで生まれてくるモノのようだ。「見ていてくださいあなた、私の生徒たちもきっと未来の国柱としてあなたに続かせますよ」の意であろう。
まさに死者が生者を呼び寄せ、生者は死者に続いて「祖国日本のために生命をささげ」ることを誓う――今も続く靖国神社ならではの〈死の連鎖〉装置としての機能が見事に描き出されているワケだが、この鬼頭画伯の力作も、見事に転生を果たした。
こちらは、昭和16年10月の靖国神社臨時大祭で販売された絵はがき。ほぼ半年の間をおいて、靖国公式絵画に認定された模様だ。
乃木2銭切手に押された記念スタンプは、10月19日*1。なにかと便利な『靖国神社略年表』によれば、臨時大祭の四日目にあたる。このとき合祀されたのは「満州事変」の戦没者497名、「支那事変」の戦没者14,516名。大変な数である。
幼児を抱えややうつむき気味に立つ母の像は、いわゆる「聖母子像」におけるもっともありふれた構図。たとえば有名なやつだとコレ。
若桑みどり先生も「この図像は旅人のもとに現れる、立ち姿の聖母子像と合致しているため、ある種のモニュメンタリーを獲得している」*2 と感慨深げである。
それほどツボにはまる絵であったのだろう。その翌年(昭和17年)の春の臨時大祭絵はがきでは――
「皇恩に咽ぶ誉れの母子」
母子の部分が見事にコピーされて再登場している。クレジットは富永謙太郎、抱かれた子の服も同じのモロパクリである。こちらの母子はどうやら第二鳥居をくぐって神門前に来たあたりか。鬼頭筆のものはまだ大鳥居が見えているので、大村益次郎銅像まで達していないワケで、設定的には少々歩いたと見える。
ここまで露骨に反復されると、いくら聖母子像の王道とは言えいささか食傷気味だが、ちょいとヘンだぞと思わざるをえない。両画伯ともまるっきりの想像で描いたのではないとしたら、共通するモデルがいたのではないか。モデルがいるとすれば、それは当の靖国神社か、内閣情報局か、大政翼賛会宣伝部か、主婦之友編集部か、いずれかのディレクションのもとで「靖国の母子像」用撮影会もしくはスケッチ会が開催されたのではないかと推測できる。
以前、日の丸美人画(「家の光」昭和15年2月号表紙、「青年」昭和18年1月号表紙)のパクリっぷりを見たが、どうも今回も共通するプロモーターがいるように思えてならない。