戦争のための受験戦争――大東亜共栄圏と受験(5)

ところで「大東亜戦争」遂行とむすびついた教育機関は、軍関係の学校だけではもちろんなかった。当時の受験雑誌では「南進を志望する諸君のために」「南方進出の足場となる学校」「大東亜戦争が生んだ学校と学科」などの特集が組まれている。
 いちいち挙げればきりがないのだが、今やマボロシとなった学校・学科も多い。例えば右記の記事中には

国立拓南塾(拓務省から大東亜省へ移管、大東亜錬成院へ統合)
明治大学専門部興亜科
法政大学大陸部
明治学院高等学部東亞科
日本大学専門学部拓殖科
國學院大學専門部興亜科
拓殖大学専門部開拓科
興亜工業大学
(現在の千葉工業大学
東亞専門学校(財団法人廣池学園が設立。現在の麗澤大学の基礎)
興亜専門学校(現在の亜細亜大学。初代理事長は「天皇機関説」を排撃した菊池武夫男爵)
南洋学院(「南方建設の指導者を育成」が目的。在仏印サイゴン

……など植民地主義むき出しの香ばしい学科が挙げられている。これに満州)建国大学東亞同文書院大学北京興亜学院、さらに各種専門学校・私設塾などを含めればおびただしい数にのぼる。当然こうした学校を目指す諸君は、いずれも少々熱が入りすぎた皇国少年たちであった。

「初見参! 我こそは本年新設された南洋学院を突破せんと、日夜孜孜と勉学せる、全鮮にその名ありと名実共にほこる成興商業の一生徒なり。今次大東亜戦争の花と散った叔父の意志を継がんと霊前に誓った。商業生よ! 諸君達の任務は重大だ。南方戦線に雄躍し、大東亜共栄圏確立の使命を担ふ商業戦士の任務は益々重大だ。見よ、本学院は仏印の現地にあり、外務、文部両省の特に期待してゐる所なのだ。進め、南方建設へ。俺に続け。(武田信謙)」
(『学生』昭和17年10月号 投稿欄)

――「進め、南方建設へ。俺に続け」なんていう涙が出るほどクサ〜いフレーズには、久しぶりにお目にかかった。どうして当時の若者たちはこうも自信過剰なのであろうか。「商業戦士」というのも興味深い概念であるが、実はこうした思い込みは、戦後直後に戦後賠償に名を借りて東南アジアで稼ぎまくった商社マンたちのメンタリティに脈々と受け継がれたのであろう。

「オール東外(注・東京外国語学校、後の東京外国語大学)志望者諸君! 余す所後二ヶ月だ。死んでも頑張れ!! ……俺は南に行って教師になり、原住民は勿論、華僑の師弟に大和魂を吹込んでやる。……おお我らの東外よ! 今年は必ず破ってみせるぞ。(南海の松陰)」
(『学生』昭和18年1月号)

――はっきり言おう。他人に迷惑をかけることはやめなされ! ついでにその思い入れたっぷりのペンネーム「南海の松陰」、なんとかならんのか? 

 先ほどの自信過剰少年もそうだが、「亜細亜解放」を大義名分に興亜主義や八紘一宇思想を叫んだところで、実際に植民地支配を末端で支えた亜インテリたちの根性は、こうした鼻持ちならないエリート主義や出世欲と密接に結びついていたということがよーくわかるでござる。
 諸君が不合格であったことを切に祈るものである。合掌。