「大日本興亜同盟」「復興」の謎

興亜運動の統一(=官製の「大日本興亜同盟」結成*昭和16年 → 発展的に解消*昭和18年5月18日の閣議決定)について調査していると、下のようなおもしろい文書にぶつかったので備忘録へ。

興亜諸団体ノ指導理念統一ニ関スル件
昭和十六年一月十日 内閣総理大臣 近衛文麿


(以下、読みずらいのでカタカナはひらがなに直した)

一、大東亜新秩序建設を目標とせる諸団体の指導理念は昭和十五年十一月三十日日満華共同宣言にて闡明せる趣旨を依らしむるごとく指導す 肇国の精神に反し皇国の国家主権を晦冥ならしむに虞れあるが如き国家連合理論の展開乃至之に基く国際形態の確立を促進せんとする運動は之を撲滅する如く指導す
(以下略)

 興味深いのは、官製「興亜」イデオロギーには、「国家連合」ないしは之に基づく「国際形態」は全く相容れざるものであることが、明々白々に書かれていることだ。しかも、それをうたう団体は「撲滅」が指示されてもいるほどだ。
 あくまでも基準は「皇国の国家主権」、すなわち大日本帝国帝国主義的利害の貫徹にあるのであって、宮崎滔天的大アジア主義な民間右翼団体の逸脱は許されるものではなかったのだろう。

……などと感慨にふけりつつ「大日本興亜同盟」でググっていると、ありましたよ、この団体。今も(w

國民新聞(平成14年12月)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H14/1412/141251koua.html

「大日本興亜同盟」が復興

昭和16年、政府の肝煎りで頭山満を顧問に迎えて全国53の民族主義団体を結集した大日本興亜同盟が12月8日復興し、同15日、靖国会館で祝賀会を開いた。

 総裁に清水馨八郎氏、
最高顧問に田中正明氏、
顧問に中村武彦、板垣正、滝沢幸助、名越二荒之助、小森義峯、 黒田秀高、中村功、片岡都美、中山嶺雄、深田匠 の諸氏が就任した。


もうね、アホかと。馬鹿かと。

んで、最高顧問の田中正明氏は、この業界では有名な大先生だが、今回初めてプロフィールを見て、モニタにコーヒー噴いた。


田中 正明
明治44年、長野県に生まれる。昭和5年、旧制飯田中学を経て興亜学塾に学ぶ。同8年、大亜細亜協会に勤務、傍ら青年アジア同盟を組織してアジア諸国の独立解放運動に尽力する。同17年、協会は大日本興亜同盟に合併統合され、同盟に勤務。大亜細亜協会職員時代、会長松井石根陸軍大将の支那遊説旅行に随行し、蒋介石支那要人と会談す。同17年12月応召。上海の中支那野戦兵器廠に勤務、南京・漢口の各支廠勤務を経て無錫において終戦を迎う(暗号手・陸軍伍長)。同21年、帰還後、飯田市の南信時事新聞編集長として入社。同24年、パージに会うも、上京し日本生産教育協会に勤務。同27年、『真理の栽き・パール博士の日本無罪論』刊行。同33年、世界連邦建設同盟事務局長として15年間勤務。財団法人国際平和協会専務理事を経て、拓植大学講師等を歴任。評論家としてパール博士の日本無罪論の普及、南京事件の究明、自虐史観の払拭等に尽力。現在、教科書を正す親子の会会長、興亜観音を守る会会長、不二歌道会参与、武蔵野短歌愛好会顧問。趣味として書道・篆刻・短歌

引用元 http://www.amazon.co.jp/gp/product/product-description/4886562043

近衛内閣に撲滅されなかった興亜の志士=田中先生のいう「アジア解放」とは何ぞやと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい