海外にはばたく「大東亜就活」

 昭和十九年版『毎日年鑑』によれば、海外在留邦人人口は、関東州:136万7234人、南洋群島:13万1157人に及んだ。
 「すすめ一億火の玉だ」と言われる1億人余りの日本人のうち、実に150万人弱の人口が、本土から海外に進出していたということになる(『毎日年鑑』では昭和15年10月1日の国勢調査を出典としている)。
 「就活はアジアへ!」といういささか能天気な宣伝文句を数年前までよく見かけたが、今から70年前も、食えない内地を捨て海外の新天地で就職・就労を希望する青年は多かった。満蒙開拓青少年義勇軍をはじめとする開拓移民が、現地で引き起こした侵略行為とその後の悲劇についてはよく知られている。実はそのほかにも、こんな海外就労の途があった。


 戦時下においても帝国政府は、日本青年の海外への雄飛を国家的植民地経営の礎として奨励した。その海外移住・海外就職政策の一翼を担った民間団体に、大日本海外青年会(昭和9(1934)年結成)がある。この団体は結成当初から『海外発展案内書 南米篇・南洋篇』『ブラジル移民案内』『南洋群島移住案内』といった海外就職ガイドブックを毎年発行していた。いずれも著者は三平将晴となっているが、この人物が何者であるのかは今となってはわからない。ともあれ、南米ブラジル移民の斡旋業をはじめ、海外に人間=労働力を送り込むためのネットワークや取材力には相当の力量があった模様だ。
 この団体が発行した就職ガイドのうち、『共栄圏発展案内書』(大日本海外青年会発行、昭和19年版)が、大東亜共栄圏構築に向けた帝国日本の鼻息の荒さを体現していて、なかなかに香ばしい逸品なのだ。

見よ、北に東亜の大宝庫満支大陸あり、南に秋と冬なき豊沃の楽土共栄圏大南洋あり、我等の雄飛を待つ豊土沃地豈洋々たるものならずや。我等はこれら未開の新天地の開発に当り、アジア建設に挺身協力、以て天業を恢弘し八紘一宇の大理想の顕現に邁進、人類の大自然開発の使命を果たさねばならぬ。


 『共栄圏発展案内書』は、総頁数434頁のペーパーバックという大部な本で、奥付には「昭和十九年一月二十日発行」とある。その巻頭に掲げられたのが上の一文だ。
 満支・南洋は豊かな楽土――という植民地主義的妄想に彩られた華麗な惹句だが、外地で一旗あげるという個々人の野望と、「アジア建設」という国家的戦略とが見事に融合・一体化しているのが看て取れる。言い換えれば、外地でボロ儲けしようという私的欲望が、「八紘一宇の大理想の顕現」という大日本帝国の“使命”によって正当化され・公認されるというカラクリなのである。もちろん当時の言説としてはありふれた決まり文句ではあるのだけれど、植民地争奪戦としての「大東亜戦争」の本質をあからさまに示しているとも言えよう。
 本書は、『共栄圏発展案内書』のタイトル通り、大東亜共栄圏をくまなくカバーしており、たいへん丁寧なガイドブックに仕上げているのが特徴。とりあげられている地域は、南洋では「南洋群島、東印度、旧英領ボルネオ島、マレー、フィリッピン、仏領印度支那、タイ国、ビルマ、印度、濠州(!)」――と10の国と地域に及ぶ。濠州(オーストラリア)なんて、まだ占領はおろか上陸すらしていないのに、いつの間にか「大東亜共栄圏」になっちゃっているのが興味深い。他方、大陸では「満洲、北支、中支、南支、海南島」が紹介されている。
 それぞれの地域ごとに、略史沿革、主要産業事情、主要都市、邦人団体名簿、現地に進出している日本企業一覧が掲載されているという懇切丁寧な内容だ。とりわけ、現地の邦人団体名簿や進出企業リストは、当時の日本企業が現地でどんな商売をやっていたのかがうかがえる大変貴重な資料であるが、その分析はアカデミズムの学者先生にお任せしよう。


渡航者の認可は陸軍が握っていた

 ところで、戦時下にどうやって民間人が南洋に行けたのだろうか。本書の言うように、南洋がいくら魅惑の楽園であったとしても、時は昭和19年サイパン陥落直前である。軍人・軍属ならばともかく、民間人がどうやって太平洋を渡ることができたのか。
 本書にある「南方占領地への渡航方法」という一章を見ると、開戦以降昭和18年9月までは、タイ国・仏印の二つの「外国」を除く南方占領地域への民間人渡航については、陸軍が一切の銓衡・認可の業務を担っていたようだ。軍政下の占領地なのだからある意味では当然とはいえ、「大東亜戦争」初期には多数の日本人が南方へ渡ったから、陸軍の事務仕事も相当に大変であったに違いない。気が遠くなるような事態である。
 この作業があまりにも大変であったためか、昭和18年9月以降は、銓衡は大東亜省及びその指定団体(海外移住者組合、南洋協会、馬来協会、海外同胞中央会など)が行い、その後に陸軍が認可するという形式に変わった。軍要員・軍属もしくは現地企業に就職した者、現地に居住している者以外の一般渡航者は、そう簡単には渡航が認可されなかった。いずれにしても、「狭い日本は住みあきた、一丁ひと旗あげてやるか」という思いつきだけで飛び出すというわけにはいかなかった模様だ。


雄飛青年の就職相談

 本書で興味深いのは、「海外進出案内篇」と題された一章で、南洋・大陸での就職を望む青年たちの質問投書に編集部が答えるコーナーだ。悩める青年の投書をいくつか抜き出してみよう。

【問】二十六歳の農村青年、ボルネオも護謨園に発展希望であります。邦人ゴム事業会社等をお知らせ下さい。
【問】商家の三男、本年商業学校卒十九歳ですが比律賓の貿易会社に発展希望ですが邦人の貿易商社をお知らせ下さい。


 農村青年や商家の三男が、実家の田畑や家業を継ぐこともままならず海外雄飛をもくろむに至った境遇を思うと、泣けてくるものがあります。植民地とは、こうした本国で食いっぱぐれた人を吸収するフロンティアでもあったわけですね。文中「発展希望」とは、最近ではエッチな出会い系掲示板でしかお目にかからぬ言葉だが、ここでは「立身出世」の意か。


海を渡る日本女子

【問】高女〔高等女学校〕卒二十歳の女性、南方の邦人銀行会社の女事務員を希望してゐますがどんな方法が宜敷いでせうか。
【問】女学校卒後、邦、欧文タイピスト修業したものですが南洋の会社に就職したいと存じますご指導下さいませ。


 今でこそ若い女性が単身で海外に就職口を求めることは珍しくもなんともないことだが、当時はどうだったのだろうか。「娘子軍」という言葉はあったとはいえ、今風に言えば事務一般職にありつくために海外に出て行くというのは、結構度胸のいることではなかっただろうか―などといらぬ心配ばかりしてしまう。
 しかしよく考えてみると、南方といっても「いずれ日本の指導のもとで大東亜共栄圏となる」というのが当時の“常識”なわけで、すでに邦人企業もわんさかと進出しているわけだし、「外国に出て行く」といった風ではなかったのかもしれない。しかも本土で就職するよりは圧倒的に高収入が見込めるわけだし。というのも――

【問】女学校卒の女性、南方に働く邦人にお嫁に行きたいですが斡旋機関をお知らせ下さい。


――という投書もあったほどだから、やはり南方では日本人ならみんな超エリートになれる!と思っていたのだろう。それにしても、「南方で働く邦人」が結婚の基準というのだからびっくりである。南方版玉の輿を狙ったわけですね。この投書に対する答えがふるっている。

【答】日本男子の進む処、これ亦大和撫子の新天地です。……これからの女性は大いに大陸なり南方なりに進出して結婚下さい。結婚の斡旋機関には東京市麹町区大手町野村ビル内海外同胞中央会婦人部があって海外の邦人から花嫁の申込みを受けたり、海外邦人への花嫁の御世話を無料で取り扱ひしてゐて今まで結婚された方も少くありません。云々。


 帝国主義というのは植民者の結婚の面倒まで見なければイケナイのだから、なかなか大変な事業であったのだった。



『青年』(女子版)昭和18年1月号に掲載された「共栄圏巡り双六」。双六方式で大日本帝国の占領地域を教育する方法も当時は大流行で、『少年倶楽部』の双六附録など枚挙にいとまがない。それにしてもナゾなのは、『共栄圏発展案内書』と同じく、すでに「濠州」が共栄圏入りを果たしていることだ。いずれは「オーストラリアも……」という帝国の野望がはしなくも露呈したものなのだろうか。

季刊「中帰連」2012年1月号掲載のものを加筆