戦争のための受験戦争――必勝! 陸海軍学校入試 (1)

「おーい、陸士予科志望の兄等、何をのろのろしとるのぢゃ?も少し張切れ。勉強許(ばか)りしとるのぢやろ。少し運動もしろ。あの広々とした錬兵場で、終日演習を行つて居る予科生を想出せ。余は一日も早くあの帽子をあの服を、あの剣を着け度いのだ……あの軍神加藤少将も陸士を出たのではないか。余は陸士受験の兄等に負けないぞ。兄等よ、大いに頑張って、あの朝霞の庭で会おうではないか(陸士予科攻撃隊員)」
(『学生』昭和17年10月号 「読者会」コーナーに寄せられた投書)

 文中の「陸士」とは陸軍予科士官学校のこと。今から読めば、結局お前は陸軍士官学校へコスプレしに行くのか?と言いたくなるのだが、当時は「あの帽子をあの服を、あの剣」が、カッコよかったのだろう。当時の中等学校生徒向け受験雑誌には、陸海軍学校をめざす中学4〜5年生(今の高1〜高2にあたる)達の青〜い投書であふれている。
 戦時下といえども、大日本帝国はやはり高度国防国家ならぬ高度学歴国家にはかわりがなく、しかも高等学校以上に進学する人がまだそれほど多くなかった時代であるから、あふれるばかりの出世欲を燃料に、苛烈な受験戦争が戦われていたようだ。とりわけ、栄光の帝国陸海軍のエリートコースへの道が保障された陸海軍学校は、軍国少年達の憧れの的であったらしい。
 陸海軍学校とは、帝国陸海軍が将校・技術将校養成のために設けた学校の総称で、旧制中学4〜5年で受験できるのは陸軍予科士官学校、陸軍経理学校、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校など。何れの学校も競争率は高く、陸士などは競争率が40倍にものぼったほどの狭き門だった。
 これほどの難関であるから、当然受験生としてはその後の出世街道が気になるわけで、こんな質問も寄せられている。

【問】小生は陸軍の技術将校を志望したいと思ふ者ですが、該制度の内容を御教示願ひます。(XYZ生)
【答】一般に陸軍技術将校といへば経理部、衛生部、獣医部、軍楽部の各将校を言ひます。それで進級の問題から言ひますと、元帥の称号を授けられて元帥府に列せられるのは一般将校出身の大将のみで、技術将校の最高は中将ですから、元帥になる事は出来ません。殊に軍楽将校は最高が大尉といふ事になってをります。この点技術将校を志望するには特別の注意が肝要です。次に技術将校となるコースを概略説明しますと、経理将校になるには陸軍経理学校を卒業する要があり、軍医将校、薬剤将校、獣医将校等は夫々の大学生並に専門学校中より採用し、軍医将校並に薬剤将校等は陸軍軍医学校に於て、獣医将校は陸軍獣医学校に於て夫々斯学の専門的研究を積んで進級します。又軍楽将校は陸軍戸山学校に軍楽生徒として入学し、更に卒業後は軍楽上等兵となり、累進して将校となります。又技術将校は夫々の専門学の蘊奥を究め、高邁有能な技術を習得するので、陸軍技術軍人として功成り名遂げて退役した場合にも、直ちに軍医の場合は医者を開業する事も出来ますし、軍楽将校なら更に高給で社会より待遇さっるという特典もあります。又技術将校は一般将校の如く実践的用兵作戦に関するものでないだけに、戦争の場合も第一線に立つ事は殆どなく、一般将校に比較して生命の保証率が高い訳です。

(『受験と学生』昭和17年2月号 「受験相談」コーナー)

――なるほど、「戦争の場合も第一線に立つ事は殆どなく、一般将校に比較して生命の保証率が高」く、かつ高給、かつ除隊後の道も開ける、しかも学費はいらない、となればみんな行きたくなる訳である。

「満天下の陸士志望諸兄よ!我輩は未だ三年の若輩ではあるが、栄あり症候性とたらんと心掛けてゐる者。我輩は一年・二年と二回陸幼を受けたが、その都度武運拙く敗北の恥辱を蒙った。併し我輩はこの位ではへこたれないぞ。諸兄よ我が皇軍が東西南北にあの驚異的な戦果を生んだのは、一つは月・月・火・水・木・金・金の忍耐・努力があったからだ。……諸兄の奮闘を祈る(奉一中健男児)」
(『学生』昭和17年11月号 投書。「奉一中」は満州国奉天一中か。)

――と、陸軍幼年学校に2度も落ちたが夢捨てられず陸士に再チャレンジという、とり憑かれたような人もいた。そんなに軍人になりたかったのか……。しかし彼の敗因は「月・月・火・水・木・金・金の忍耐・努力」というむちゃくちゃ精神主義的な受験勉強スタイルにあったことは明らかだ。「土・日」がないからこそ頭脳活動が停滞したに違いない。こんなありさまでは、受験戦争はもちろん、本番の戦争にも勝てるわけがない。