ファシスト少女フランチェスカちゃん

どうして戦時中の在日イタリア大使館付武官などを調べているかというと、このベルトーニ中佐の娘がなかなかに可憐であるからであった。


写真週報第151号 昭和16年1月15日

この「写真週報」の表紙を飾ったのは、手前から

ベルトーニ伊太利大使館附陸軍武官の愛嬢フランチャスカさん
荒木十畝画伯の愛孫明子さん
オットー独大使の愛嬢ウルズラさん

の3人。うしろの二人は、ちょっとなあ……なのでどうでもよろしい。記事中にはフランチェスカちゃんがあやとりやおこたに珍しがっている写真が掲載されている。表紙で着ているオーヴァーを脱げば、ブラウスの胸元にはファシスト少女団のバッジがキラリ、なのだ。
ファシスト少女団というと、ナチス・ドイツのBdMのようなもんか、と思っていたら、オシャレ度合いが段違いであります。BdMは所詮は北方系肉食人的「金髪の野獣」。


via.OPERA NAZIONALE BALILLA
ファシストようじょの大行進。まさに矢川澄子「不滅の少女」状態であります。


んなことはどうでもいいのですが、統領失脚後のこのフランチェスカちゃんのゆくえが気になる。
父君のグイド・ベルトーニ中佐は、たしか『エティオピア戦争』というバドリオの著書の邦訳に名をつらねていたはず。とすると、バドリオ派にいったのか、サロ共和国パゾリーニ「ソドムの市」のイメージ……)側についたのか。当時のイタリア大使館はどーなったのか。イタリアの国会図書館みたいなところで検索すると、グイド・ベルトーニという同姓同名の作家(?)がヒットするが、これはたぶん別人だろう。NATO時代になってから、ベルトーニ将軍というのもGoogleでひっかかってくるが、はたして同一人物なのかどうかわからん。ということで、先だってから調べているのだが、進捗しないのでここに公開した次第。
ちなみにドイツのオットー大使は悲惨。この「写真週報」の頃はまだゾルゲ事件発覚の前なのですな。Wikipediaによると昭和16年10月の事件発覚から1年後の昭和17年11月に駐日大使を解任され、戦時中は北京にいたらしい。ウルズラ姉さんも、左遷の悲哀をかこつていたに違いない。一方、ムッソリーニ自署の写真を送られるほどの「枢軸画伯」であった荒木十畝は、昭和19年9月に病没。明子さんのゆくえは杳として知れない。日独伊防共協定のシムボル的に「写真週報」の表紙を飾った3人の娘たちは、どんな戦後を迎えたのであろうか。