ファシスト少女フランチェスカちゃんのゆくえ


写真週報第151号 昭和16年1月15日。あやとりを教わるフランチェスカちゃん(右側)


 以前書いたエントリー「ファシスト少女フランチェスカちゃん」で、「このフランチェスカちゃんのゆくえが気になる」と書いたが、父君のグイド・ベルトーニ伊太利大使館附陸軍武官(当時)一家の行方がもしかしたらわかるかもしれない。


 『敵国人抑留――戦時下の外国民間人』(小宮まゆみ著、吉川弘文館、2009年)という本を、ある親切な紳士から教えてもらった。その本に、ムッソリーニ失脚後のイタリア大使館の人々の去就が触れられていたのである。


 バドリオ政権が1943年10月30日にドイツに対して宣戦布告すると、イタリアは日本の同盟国から「敵国」になった。「そのため1943年10月からは、イタリア人を対象とした新たな敵国人抑留が始まった」(同書164頁)。同書によれば、1943年9月時点でイタリア大使館・領事館の館員とその家族が合計66名いたそうだ。この中にかのフランチェスカちゃんもいたに違いない。
 しかし、敵国となったイタリア公館に対して、日本の対応は厳しかった。「まず9月10日、イタリア公館の外部からの監視と公館員の外出制限、自家用車の使用禁止、電話切断、郵便電信の配達停止」の措置が取られたのである。
 ところが、同年9月23日に、ムッソリーニを首班とするファシスト共和国政府が成立する。それをうけて大日本帝国政府は、イタリア外交官ならびに一般イタリア人に対して「ファシスト共和国政府に忠誠かどうかを審査して、忠誠であると認められる場合、および無害と認められる場合は開放して中立国人、それ以外の場合は敵国人に準じて取り扱うこととした」(同書165頁)という。
 この処置が決定されたのは10月5日の大本営政府連絡会議で、「伊国ニ対スル処置調整ノ件」と題された文書をアジア歴史資料センターのデータベースで見ることができる。



 新ファシスト共和国への忠誠を誓う、といっても、日本政府が用意した宣誓書に署名捺印(?)しろということであったらしい。同書では特高外事月報から宣誓書の文面を引用している。

伊国「ファシスト」共和国政府に対し忠誠を尽くすと共に大日本帝国に対し衷心協力すべきことをここに厳粛に宣誓す

 問題は、グイド・ベルトーニ駐在武官がどっちについたのか、なのだ。小宮氏はさらに次の文献からその実情を紹介している。

大使館関係者をはじめ東京にいたイタリア人たちは市内のカトリック教会に集められ、厳粛な宣誓式に臨んだ。イタリア人一人一人が壇上に立ち、自分がムッソリーニにつくかバドリオにつくかを聖書に手を置いて宣言したのである。結果は約50人いたイタリア大使館関係者のうちムッソリーニについたのがわずか2名、民間人のうち数名もバドリオにつくことを宣した。
石戸谷滋『フォスコの愛した日本』風媒社、1989年

 ううむ、これだけではベルトーニ武官がどうしたのかはわからない。小宮氏は続ける。

しかし……イタリア外交官とその家族68名注42名も抑留された。マリオ・インデルリ大使とその妻、アンジェロネー商務官一家など、男子31名、女子11名だが、そのうち7名は子どもである。(同書167頁)

 フランチェスカちゃんはベルトーニ氏の宣誓如何にかかわりなく、抑留されてしまったと見てほぼ間違いないのではないだろうか。イタリア外交官たちが抑留されたのは、東京都大田区田園調布三丁目の聖フランシスコ修道院であった。現在同所に立つ田園調布教会の沿革を見ると、確かに「1944年夏、 警視庁が建物を接収し、 当時枢軸国を離れたイタリア大使館員の軟禁所」となったとある。


現在の修道院のようす。併設の大聖堂は1955年に建てられたものだという。


 ただし以上の情報だけでは、まだフランチェスカちゃんがどうなったのか確定することはできない。小宮氏がイタリア人の抑留状況について典拠としているのは特高外事月報のようだ。さらに調査をすすめるために、外事月報の復刻版を所蔵する某東大図書館に突入する予定であります。


敵国人抑留―戦時下の外国民間人 (歴史文化ライブラリー)

敵国人抑留―戦時下の外国民間人 (歴史文化ライブラリー)

フォスコの愛した日本―受難のなかで結ぶ友情

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