皇国の初等音楽教育

国民学校)初等科音楽 四 教師用、文部省、昭和17年
国民学校の音楽の教科書(第五期国定教科書)は復刻もされているし、下手すりゃ靖国神社の土産物屋で買えるかもしれないくらい(未確認だけど)文部省唱歌好きな方々が買っているはずだが、国定教科書復刻業界が「教師用」を復刻しないのはどうしたわけか。これが一番面白いのに。
神保町の古書会館でやっていた古書展で、初等科音楽(四年生)の教師用教科書が300円で落ちていたので、まわりをキョロキョロしながら購入。値札を見ると、このお店は、以前、東方社のオリジナル版『偉大なる建設 満州国』を2000円で売ってくださったありがたいお店ではありませんか。三拝九拝、深く頭を下げて帰ってきました。

んで、のっけから楽しい。どーして皇国臣民にとって音楽教育が必要なのか? 文部省の役人どもが頭を絞って、巻頭に「芸能科指導の精神」を書き連ねている。

第一 芸能科指導の精紳
(一)要旨
一 皇国の道の修練
芸能斜教育の要旨は、まづ第一に皇国の道に則つて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成をなすにある。これはいふまでもなく、国民学校教育の一般の原則であるが、特に芸能科の教育に当たるものの銘記しておく必要がある、
われわれは、悠久の昔から、われわれの祖先が修練し創造してきた歴史的国民的な芸能文化のうちに養はれ育てられてゐる。そこには、祖先がわれわれに遣した伝統的な物の見方、感じ方、考へ方があり、遺訓があり、道風があり、道がある。さうして、それ等のものの帰結するところは、芸能文化の面を通しての皇運の扶翼といふことにある。それが、皇国の道である。

「芸能文化の面を通しての皇運の扶翼といふことにある。」と大見得を切っているのだが、では具体的にはどーやって「扶翼」するのかはさっぱりわからない。

われわれは、この皇国の道に於いて現に生かされてゐると共に、将来、ますますこれを発揚して行かねばならないのである。即ち芸術技能を修練することを通してこの皇国の道に参じ、自分に於いて皇国の道を自証し、皇国の道に於いて自分を自覚し、皇国の道の使徒としてこれを紹述し、これを顯彰し、以つて国運の発展に貢献して行かねばならないのである。

続く文章でも、「臣民の道」風な天皇への万民帰一思想を吹いているだけで、神がかり以上のなにものでもない。ただし、哲学的なレトリックとして面白いのは、【1】《皇国の道》という、見に見えず音にも聞こえないが、過去をはらみ未来へと開かれたなんらかの「道」があって(=絶対精神だろうな、こりゃ) 【2】「自分に於いて皇国の道を自証」=「道」から疎外された「自分」のウチに「道」を観て 【3】「皇国の道に於いて自分を自覚」=「道」へと自らを帰一することではじめて自己を自覚する ――とゆー、疑似ヘーゲル的自己疎外とその止揚のしくみにおいて、皇国臣民の自覚過程が説かれていることである。このトリアーデ以下に述べられている「紹述」「顕彰」「貢献」は、いささかエレガントではない付け足しであって、前半は紀平正美のパクリで、後半は役人の作文……みたいな憶測をめぐらしたくもなってくるのである。