ミラン・クンデラ「一国の人々を抹殺するための最後の段階」箴言についてのメモ
故・清水馨八郎はその著『大東亜戦争の正体』(祥伝社、2006年)で、ミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』から次の一節を引用している。
「一国の人々を抹殺するための最後の段階は、その記憶を失わせることである。さらにその歴史を消し去った上で、まったく新しい歴史を捏造し発明して押し付ければ、間もなくその国民は、国の現状についても、その過去についても忘れ始めることになるだろう。」
この箇所をそれなりの数の人が気に入ったようで、 「一国の人々を抹殺するための最後の段階」で検索すると、いろいろ香ばしいサイトに、同じ文章が引用されているのがわかる。
他方、安倍首相のブレーンとも言われている伊藤哲夫は、日本政策研究センターのサイトに投稿した「なぜ「戦争」と言えば「謝罪」なのか」(2006/06/14)で次のように書いている。
『笑いと忘却の書』の著者、ミラン・クンデラは、同書の登場人物である一人の歴史学者の口をかりて、次のような言葉を吐かせている。
「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去ったうえで、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせて新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることとなるだろう」
そこで気になって、比較的容易に入手できるクンデラの本を読んでみた。西永良成訳の集英社版では、当該箇所はつぎのようになっている。
「民衆を厄介払いするために、とヒューブルが言った。まず民衆から記憶が取り上げられる。民衆の書物、文化、歴史などが破壊される。そしてだれか別の者が彼らのために別の本を書き、別の文化を与え、別の歴史を考え出してやる。やがて、民衆が現在の自分、過去の自分をゆっくり忘れ始める。まわりの世界はそれよりなお速くその民衆を忘れてしまう。」
訳文の違いのみならず、清水馨八郎がいろいろ省略しているものがあるようですねー。そもそも清水引用では「最後の段階」となっていますが、伊藤哲夫はどうやらその間違いに気づいて「最初の段階」に直したようです。西永訳では「まず」と最初の段階になってますね。
清水馨八郎が依拠した元ネタもまたあるはずなので、もう少し探求してみましょう。
「拙文はスルー」の哀しみ
『新潮45』のわずかな余命を断ち切ってしまった杉田水脈擁護特集、ここに執筆したメンバーの一人、藤岡信勝氏が、産経系WEBメディアのiRONNAに、「藤岡信勝手記「言論圧力に屈した新潮社よ、恥を知れ」」という涙なしでは読めない文章を寄せていた。
彼が『新潮45』に書いた「生産性」をマルクスのどこからひっぱってきたのかについて前半は費やされているのだが、これがいろいろ噴飯で、元共産党員であった藤岡先生の「昔とったきねづか」も恐ろしく錆びついてしまい、原型をとどめていないのだなということがよくわかった。
藤岡信勝のこのくだりが猛烈に笑える。人間の生産と聞いて史的唯物論の原理なのだからド・イデだとピンとこないで初期マルを語るのも驚きだが、誰訳の岩波文庫版か定かでないが「「岩波文庫の訳者は、よく意味が分からずに訳していたのである」とさらっと書くののも軽率の極みhttps://t.co/RLD32Rme61
— 早川タダノリ (@hayakawa2600) September 28, 2018
藤岡氏が見つけた『ドイツ・イデオロギー』の当該箇所はどこだか明記されていないが、たぶんこのあたりではないか。
さて労働における自己の生の生産にしても、生殖における他人の生の生産にしても、およそ生の生産なるものはとりもなおさず或る二重の関係として――一面では自然的関係として、他面では社会的関係として――現われる。
マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』Ⅰフォイエルバッハ[1]歴史、大月版全集第3巻、1963年、25頁
しかし、藤岡センセイが若い頃から親しんできた「正統派」的体系では、エンゲルスの『家族、私有財産、および国家の起源』の序文のほうが先に出てきてもおかしくないのだ。
唯物論的な見解によれば、歴史を究極において規定する要因は、直接の生命の生産と再生産とである。しかし、これは、それ自体さらに二種類のものからなっている。一方では、生活資料の生産、すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具との生産、他方では、人間そのものの生産、すなわち種の繁殖がそれである。
いずれにしろ、マルクス/エンゲルスの言葉から杉田水脈の「生産性」ものさしを擁護するのはまったくの筋違いと言わなければならない。
で、藤岡はマルクスだって「人間の生産」と使っているではないか!とりきみかえるのだが、マルクスは人間の生産について「生産性」のものさしなどでははかっておらんよ。上野千鶴子まで引き合いに出しているが、無意味な駄弁にすぎぬ。
— 早川タダノリ (@hayakawa2600) September 19, 2018
そもそも「生産性」は、労働過程(生産対象+生産手段+労働力の結合)の結果生み出される生産物、この生産物ではかられる生産の有効性の度合い(上記3要素の結合がうまくいってるかどうか)についてのカテゴリーなので、諸モメントが有機的に結合する生産(労働)過程から1コのモメントだけをとりだして「生産性」を云々するのはただの俗用にすぎない……「社会科学の普通の用語であることを発信」するのであれば、藤岡センセイはそのように切って捨てるべきであったろう。
こういう時に、同じ「新しい歴史教科書をつくる会」役員としての党派根性が働いたのであろうか、箸にも棒にもかからぬ杉田の「生産性」語の用法の擁護を買って出てしまったのが藤岡センセイなのであった。ともあれこのくだりに関しては、そもそもヤング藤岡信勝氏が学んだ正統派的「史的唯物論」の ゆがみとも関係するので、稿をあらためたい。
それにして、前掲の藤岡センセイの「手記」の最大の泣かせどころは
拙文は、7本の特集論文の冒頭に配置された。だから、特集記事を読む人は、最初の関所として私の論文を読み、その関所での果たし合いを経て、次に進まなければならないはずだ。ところが、拙文はスルーである。言論戦を回避してもっぱら圧力をかける。
のところで、ここまで恥ずかしげもなく「拙文はスルーである」と書いてしまえる、いや書かざるをえなかった藤岡センセイの哀しみを思うと、読んでる方も涙がちょちょぎれてしまうのである。
「スルー」されてしまった右派系論壇誌の杉田がらみ寄稿
実は『新潮45』10月号の杉田擁護特集以外にも、実は『正論』『WiLL』『月刊Hanada』『Voice』など保守系/右派系論壇誌には、杉田水脈の文章にからめた記事がちらほらと掲載されていたので、これから読むために挙げておこう。
『正論』10月号
『WiLL』10月号
*ちなみに「睾丸理論」で名高い竹内久美子は、産経新聞2018年8月1日付「正論」欄に「LGBTには生産性がある」なる、杉田水脈の同一平面上にある作文を寄せていた。
【正論】LGBTには「生産性」がある 動物行動学研究家、エッセイスト・竹内久美子(1/3ページ) - 産経ニュース
『月刊Hanada』10月号
●八幡和郎:杉田水脈議員へのメディア・リンチ
*藤岡どころか、八幡氏こそ『新潮45』特集内でもそのあまりの出来の悪さにスルーされているのだが。それにしても、同一人物が、同じネタで、同月の競合他誌にも書いているというのは、この業界の〈狭さ〉を感じさせる。
『VOICE』10月号
●村田晃嗣(同志社大学法学部教授):LGBTを政争の具にするな
●与那覇潤:リベラル派の凋落は自業自得だ
この与那覇氏の寄稿文、杉田作文を起点にしつつも「しかし私はこの騒動が、久々のリベラル派の「勝ち星」だ、とはまったく思えません。むしろ一保守系議員のLGBTに関する無知以上に明らかになったのは、リベラル派の「堕落」と「自己矛盾」だと感じています」と述べていて、「リベラル派」って誰ですかぽかーん状態だ。
しかもその後に、「保育園落ちた日本死ね!」で子育て支援には最優先で税金を投入せよと訴えていたが、ヘテロのカップルでも子宝に恵まれない人はいる、「彼らの視点に立つならば、「子供を作らないあなたは、世代の再生産に貢献しないのだから国による支援は後回しですよ」と言われている点に関して、保育園デモと杉田議員の論理は大差ありません」という、極めて理解しがたい屁理屈をふりまわしていて唖然とした。
「「子供を作らないあなたは、世代の再生産に貢献しないのだから国による支援は後回しですよ」と言われている」……と書いているが、保育園デモで、そんなこと誰が言ったんですか?? やばいよこの人感がすごい。
――ということで、各誌いろいろ大漁みたいですよ。
寄稿しました:抑えられない改憲衝動 右派系各誌が安倍待望
「しんぶん赤旗」(2018年9月16日)読書面に、右派系三誌がいっせいに特集した「安倍三選」待望記事について寄稿しました。
『世界』2018年10月号に寄稿しました
『世界』2018年10月号に、「「私たち日本人」はトキが自由に飛び回る日の夢を見るか」を寄稿しました。日本教科書の中学生むけ「道徳」教科書3学年分をネチネチ読んでのレポートです。
一読して何よりも驚くのは、「道徳」の教科書に安倍晋三首相の真珠湾での演説(2016年12月27日)が登場していることで(中1)、まさに〈安倍晋三記念「道徳」教科書〉といった趣である。しかも右派系 修養・道徳団体として知られるモラロジー研究所の出版物からの引用・転載が2本、右派系文化人寄り集まって編纂した『はじめての道徳教科書』(育鵬社、二〇一三年)からの引用が1本――入っていたり、突然「〈もつと知りたい〉武士道」(中2)などのコラムが登場するなど、その政治的イデオロギー性の頭も尻も隠していない異様な展開でいろいろと驚いた。
で、twitterでも書いたこの下りの顛末も盛り込んでいます。
「真希はそう言いながら、ベッドのそばまで来て俺の顔を覗き込んだ。柔らかな髪が揺れて一瞬シャンプーの香りがとつぜん立った。突然のことで俺はどぎまぎして答えた」。
当該ページの挿絵がこちらになります(日本教科書『生き方から学ぶ』(中学1年用)より)
倉橋耕平さんの『歴史修正主義とサブカルチャー』書評をWEB世界に寄稿しました
「新しい歴史教科書をつくる会」が設立記者会見を行った1996年12月から22年が経とうとしている。2018年現在の大学生のほとんどは、生まれたときから「自虐史観」非難の中で育ったことになる。
この20年で歴史修正主義的言説が言論の市場に占める割合は拡大し、書店では民族的差別主義と一体となった歴史修正主義本が跋扈した。その種の言説のビリーバー/ユーザーもまた増大している。そもそも歴史修正主義に非常に親和的な政治エリートが政権に居座っている中で、大規模な公文書の改竄が行われていたことも明らかになり、すでにごく近い過去さえも政治的利害によって「修正」されてしまうほど社会は劣化した。
新刊レビュー/倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』 評=早川タダノリ | WEB世界