日本イデオロギーとしての「美しい国づくりプロジェクト」

内閣官房が、珍奇なプロジェクトを始めていた。題して「美しい国づくりプロジェクト」。そのサイトのQ&Aの阿呆ぶりに笑った。

Q:「美しい国づくり」プロジェクトでは、何を目指していくのですか?
A:「美しい国づくり」プロジェクトでは、私たちの国、日本の、様々な分野で本来持っている良さや「薫り豊かな」もの、途絶えてはいけないもの、失われつつあるもの、これから創っていくべき美しいものをも踏まえながら、私たち一人ひとりが日本"らしさ"を見つめ直し……

――大きなお世話の集大成であるが、言っていることがさっぱりわからない。とりわけ、列挙されている曖昧な形容詞群は、相互に矛盾なく同居しているところが珍妙。一文に収められているので読み飛ばしてしまいがちだが、箇条書きにしてみると……
良さ
「薫り豊かな」もの*1
途絶えてはいけないもの
失われつつあるもの
これから創っていくべき美しいもの
と、なんら内的連関も論理構造もない、純然たる「雰囲気」でしかないものを税金で収集しようとしていることがわかる。
 一番間抜けなのは「これから創っていくべき美しいもの」で、まだ世の中に無い「美しいもの」を挙げよというのだから、問題意識はナゾきわまりない。国民が思いつく限りの妄想的美を首相官邸は収集しようとしているのかもしれない。

……(承前)各種企画への参加を通じて、日本 "ならでは"の感性、知恵、工夫、そして行動に気づき共有し、そのことを日々の暮らしや仕事の中で磨き上げ、創り出していくことで、「美しい国、日本」を築いていくことを目指しています。
また、こうした私たちの姿や行動を世界に発信することで、世界から理解や共感を得て、愛され、信頼につなげていくことを目指しています。このように「美しい国づくり」プロジェクトでは、こうした取り組みを繰り返すことで、皆さん一人ひとりとともに考え、行動していく運動として、一人ひとりが日本人としての誇りや自覚をもった、成長への活力ある国となることを目指していきます。

――上に見たような曖昧模糊としたものを、いくら「日々の暮らしや仕事の中で磨き上げ、創り出していく」といわれても、何がやりたいのだかさっぱりわからない。こうした国家的美意識を国民が共有し、それを生活/勤労(=「職域」!)の両極面において貫くことを通じて「日本人としての誇りや自覚」を形成せしめるという発想は、モロ『臣民の道』(昭和16年)のまんまである。
 例えば――

 日常我等が私生活と呼ぶものも、畢竟これ臣民の道の實踐であり、天業を翼賛し奉る臣民の營む業として公の意義を有するものである。「天雲の向か伏す極み、谷蟆のさ渡る極み、」皇土にあらざるはなく、皇國臣民にあらざるはない。されば、私生活を以つて國家に關係なく、自己の自由に屬する部面であると見做し、私意を恣にするが如きことは許されないのである。一椀の食、一着の衣と雖も單なる自己のみのものではなく、また遊ぶ閑、眠る間と雖も國を離れた私はなく、すべて國との繋がりにある。かくて我等は私生活の間にも天皇に歸一し國家に奉仕するの念を忘れてはならぬ。我が國に於いては、官に仕へるのも、家業に從ふのも、親が子を育てるのも、子が學問をするのも、すべて己の分を竭くすことであり、その身のつとめである。我が國民生活の意義はまさにかくの如きところに存する。

――というような一節との類似性は、この「美しい国づくりプロジェクト」の中にいる人の頭脳がどの時代で止まっているかを示している。(つづく)

*1:とくに「薫り豊かな」ものがカギ括弧に入っているのは不思議。日本文化においていい匂いがするものといえば、何と言っても〈うんこ〉(芥川龍之介「好色」参照)を思い浮かべるのが今昔物語以来の日本的スタンダードのはずだが、「薫り」などという語を用いることで、一部の風流人以外にはとても嗅げないような、ゲテモノきわまりないモノまで含めようとしているとしか思えない。