戦争短歌作品の鑑賞法

『新しき短歌論』五島茂著 第一書房 昭和17年9月

 ふだんなら短歌ものは見向きもしないのだが、第一書房の戦時体制版だというので100円で手に入れた。歌人・五島茂が戦時中にこんな本を書いていたとは知らなかった。
 本書は、「支那事変」以降の現代短歌の流れの中で、戦争短歌ならびに労務者短歌(元プロレタリヤ短歌か!?)を、「短歌の前進形態」としてとりあげている。

 戦争短歌といっても――

すめらみくさ神とも神とたたへつつ涙せきあへず今日までの生命がけの訓練
土屋文明


といった、高名な歌人によるトンデモ臭あふれる作品から、

ゆくさきを秘めたる船に兵あまた乗りこみしままいく夜をあかす
中山隆祐

背後より規則正しき靴音はすでに味方が駆けつけしなり
鈴村左兵衛

西北に二キロ隔たる村落に土匪出づと電話の声は鋭し
臼井史郎


などの、無名兵士たちの歌まで、幅広く取り上げて、いちいち感激しているのが面白い。

先の土屋文明の作品には、
「夥しき緒戦歌氾濫中最も感銘深かりしものである。皇軍神業の如きハワイ大戦果をミルにつけ海軍三十年の猛訓練を鋭くおもい涙とどめあへぬのである。切迫した感動を遂に現わしえたという感がふかい傑作である」
と修辞を費やしてベタほめである。


五島によれば、「短歌は我が国民感動の体験を通した韻律表現体である」のだそうだ。その感動の構造を、五島はご丁寧にも図解してくれている。

――見ての通りのものだが、感動の基底層には「民族乃至国民的感動」が据え付けられているところが興味深い。「基準律」を形式としつつ、そこに「個の感動」が与えられ、それが民族的普遍性をもった「国民的感動」へと深められてゆく、というわかりやすい構造である。こうした「国民的感動」を呼び起こす普遍性を戦争短歌が獲得し得たのは、ひとえに「死生を絶した醇乎たる国家理念の化身たる忠烈無比の皇軍将士」たちが、「「いのちにひたむかう」主体的態度と前進性表現形態」をもって現代短歌を開花させたから――なのだそうだ。国家理念の化身が歌っているのだから国民的感動を呼び起こすのならば、そりゃそうだろうと思うが、それがホントかどうかは誰にもわからない。

こうした「忠烈無比の皇軍将士」たちの歌への五島のコメントは大変興味深い。

「之らの作品群にはすでにそこに何か従来のものと異ったもの、異ったプラスを感じないか。ことば、調子、構成、迫力等々、何かはみ出している感触をおぼえないか。はみ出しているのだ。既成リアリズム概念を。」

五島先生はかなり興奮している。

「短歌の明日への橋は前線将士の手によって黙々と刻々に架けられているのだ。戦争短歌の歴史的な意味はここにある。われわれはそれに敏感でなければならない」

と、最後には短歌の未来を戦争短歌に賭けてしまうのだから大変なものである。
しかし、戦争短歌がそんなにいいものなのか? 歌の善し悪しはからきしわからないので何も言えないのだが、例えばこんな作品について――

プリンス・オブ・ウエールズよりずりおちし敵司令長官と共に沈める英霊もあらむ
五島美代子

マレー沖海戦史曠古の大戦果へ作者はぶつかっている。具象的に眼に見えるようにいきいきとなまなましく鋭く截っている。作者独特の生身の表現である。現実迫力の濃さと振幅の強さとが凄さを深くしている。主観句は、「もあらむ」という一句のみである。


――と言われても困ってしまうのである。
たとえ五島美代子女史が、五島先生の細君であるという事実を割り引いたとしても、なのである。