「靖国の精神」でにっこり逝こう!

高神覚昇著 『靖国の精神』 昭和17年6月 第一書房

古本屋で入手したこの本の見返しには「弟ヨリ送リ来タル 出水空ニテ 鈴木**」と毛筆で書かれていた。神風特攻隊の基地となった出水海軍航空隊で出撃を待つ兄に贈られたものであろう。いままさに軍神とならんとする兄へのプレゼントが『靖国の精神』とは……一冊の本に込められた兄弟のドラマに思いを馳せながら、暗然たる気持ちを振り切って本文をたどると、これまたさらに暗然たる気持ちになれるトンデモ本である。

では「靖国の精神」とは何か?
靖国の精神とは、決して戦争のとき、ひとり兵隊さんのみがもつ軍人精神ではない。戦時であろうが、平時であろうが、いついかなる時にも、日本人すべてが、必ず堅持していなければならぬ精神、それが靖国の精神である」「靖国とは、国を治め、国を和らげ、国を安んずる精神である。ゆえに靖国の精神とは大和の精神である」
はぁそうですか、で、それが何か?

「しかも大和の精神とは、君が代の心であり、日の丸のこころである」
……だんだんこのあたりからよくワカラナクなってくる。「日の丸のこころ」とはこれまた珍妙なものに「こころ」がやどったものよ。まるで付喪神である。

「いいかえれば「天壌無窮」と「八紘一宇」の精神である」
おっとかなり大きく出ましたね。君が代・日の丸のこころを言いかえれば「八紘一宇」の精神だったのか! 東京都教育委員会の人びとに教えてあげれば大層喜ぶにちがいない。
それにしても靖国の精神=大和の精神=君が代・日の丸のこころ=天壌無窮・八紘一宇という奇怪な等式が意味するのは、「靖国の精神」とは任意に選択されたありとあらゆる「日本的なるもの」をすべて飲み込むことが可能ないーかげんな代物なのだということがわかる。戸坂潤が『日本イデオロギー論』で明らかにしたとおりであるなあ。

ではその「靖国の精神」とはいかなるときに発揮されるのか?
「われわれ日本人は、この靖国の精神をしっかり胸に抱いて、生きねばならぬ時には石に齧りついても生きぬく。だが、死なねばならぬ場合には、にっこりと笑って死んで行く……自分の肉体は死んでも、その魂、その生命は、いつまでも天壌無窮の国家と共に、永久に生きてゆくのである」
これはもうほとんど「ポアするぞ〜」の世界。殉国の精神と永久の生命とを結合させたおそるべき死の哲学である。「靖国神社」という造神の制度が、個的生命と類的生命体=「無窮の皇国」との一体化を媒介するという仕組みだ。ああ気持ち悪い。たかだか創建後70年にも満たない靖国神社が、ここまで宗教的熱情の対象となるとは、あらためて驚愕する。
著者の高神はベストセラー『般若心経講義』で知られる高名な仏教学者であるが、こういう理屈をこねる人間は常に必ず自らは死地に赴かないのであるからして、小生としては「言行一致」「率先垂範」を高神先生に提言したいところである。