日本は白人帝国主義とは違う?

東亜新秩序経済建設の指導理念
 日本経済政策の伝統は、本領は、たゞ単に個人を唯一の真実在と見たり、価値の基準とするだけのものではなく、また全体を唯一の真実在と見たり価値の基準とするだけのものでもないやうである。両者を総合、止揚したところの指導原理があるやうに思へる。それは単なる個人主義のもなければ、単なる全体主義でもない。個人は全体のために滅私奉公の誠をさゝげるところに個人の存在意義を認めるけれども、しかしまた個人は自律自営以て個我の自由と其の顕現とを見失ひえない関係に在る。これをもしも全体主義と言ふならば、呼んでもいゝであろう。……(中略)……
 日本の全体主義は、イタリーのそれ、ドイツのそれ等になぞらへるべき性質のものに非ず。これを、弁証法的に言へば、日本の全体主義個人主義と所謂全体主義との止揚されたものであると云ひ得ようが、必ずしも弁証法的論理をそのまゝ用ふるまでもなく、個体は限定された全体であると言ふ具合に説明すればよい。ことに、日本皇室は、曾て封建制度に於てさへ超然として居られたことを以て、日本封建制度の第一の特質と歴史家が観るになぞらへて、わたくしは、資本主義制度に於ても皇室は超然たる態度を持続せられたことが、日本資本主義の第一特質と考へたい。

『大東亜新経済と欧州新経済』桑原晉(彦根高等学校教授)著
発行:ダイヤモンド社 昭和17年

▲皇室が存在することが日本資本主義の特質?

 この本では、大東亜共栄圏=日本の広域経済圏は、皇道にもとづく道義的経済に基く「八紘一宇」の理念の顕現であり、ドイツなどのような西欧的全体主義を主柱とするそれとはまったく違うということを主張しています。その上で、南方資源を細かく紹介し、資源開発・運輸の問題をはじめとして「大東亜金融圏」ならびに「食糧共栄圏」の確立などについて論じています。「大東亜共栄圏」を経済政策の側から論じたものと言えるでしょう。
 「資本主義制度に於ても皇室は超然たる態度を持続せられたことが、日本資本主義の第一特質」なる主張には「なんでそう言えるの?」と首を傾げます。多分、古代からの王権が世俗に対して「超然たる態度の持続」を示してきたがゆえに、資本主義の現代においても超然ぶりは維持され、皇道と道義をもった日本独自の資本主義ナノダ……と言いたいのでしょうが、当然にも時代ごとに天皇(制)は変化してきているのであって、「皇道」なるものが超歴史的に貫かれるはずがありません。皇室が「超然たる態度」を持続してきた、というのはよく聞く俗論ですが、残念ながら根拠がない。しかしこの理屈は、坂本多加雄の『象徴天皇制度と日本の来歴』においても多用されています(坂本の場合、律令制明治維新まで維持されてきた、と説くところに悲しいオモシロさがあるのですが)。

 ところで、桑原のいう「日本的全体主義」、すなわち「日本の全体主義個人主義全体主義との止揚されたもの」「個体は限定された全体である」……という論理を、哲学的に批判するのはなかなか難しいものです。もちろん、全と個の止揚といっても、かつての天皇制国家においてホントに「止揚」されていたのかぁ?……というあたりから検証する必要があると思いますけど。
 ここで思い出すのは、小林よしのり戦争論』での「公と個」の論理です。特に「個は制限と束縛の中で完成される/自分を一番自由にしてくれる束縛は何か?」(『戦争論』377〜378頁)という考え方ですね。この「全と個」のインチキ止揚イデオロギーを批判していくことは、きわめて現在的な課題なのでしょう。