「英霊」のゆくえ――「忠霊公葬」論の暗黒

 戦死者の公葬は断固として神道式でやるべきである、仏教式などけしからん!――と青筋立てて絶叫した人びとがいた。これがいわゆる「忠霊公葬」論である。昭和九年に行われたの日本海海戦の名将・東郷平八郎国葬をきっかけしてくすぶり始め、「大東亜戦争」下の昭和十七~十九年にかけてその運動はピークに達した。
 当時、神職(神官)は、明治十五年一月二十四日に発布された内務省通達「神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セサルモノトス」によって葬儀への関与が禁止されていた(ただし、府県神社以下の神官は当面は従来通りとされた)。初期の「忠霊公葬」運動は、この内務省通達の廃止をねらった神道人が中心的な担い手であったが、やがて超国家主義右翼や天皇信仰者などのどーしようもない人たちをまきこみ、一大トンデモ運動へと発展した。
 昭和十八年に内務省警保局保安課が作成した文書「英霊公葬問題」(国立公文書館所収)によれば、その中心的な団体として「祭政一致翼賛教会、皇国同志会、勤皇まことむすび、葦牙寮、大東塾」など、戦時下極右団体が並んでいる。活動も派手で、昭和十七~十八年年頭にかけてたびたび会合を開き、衆議院貴族院に請願したり建白書を関係各方面に送りつけるだけでなく、「公葬式」なる新葬式式次第を考案したり、彼らに反撥する大日本仏教会と激しいイデオロギー闘争を展開したりと、大忙しだった模様だ。
 彼らの主張によれば、戦死者が靖国神社に祀られれば護国の神として永遠に「生きる」ことができるらしい。だから葬式は「靖国祭祀」、「国礼国式」でやれ!という主張のようだ。客観的に見ると戦死者の霊魂に対する独占的占有権を国家と靖国に与えよと言っているに等しい主張であって、遺族がどう思うかなど全く関係ない論理である。戦後、殉職自衛官隊友会護国神社に合祀申請したのは違憲だと訴えた遺族が最高裁で敗訴した有名な裁判があるが、こうした判決の底流に、〈英霊は国家のもの〉だという、靖国システムが生み出した傲慢な論理がプンプンとにおってくる。

極楽浄土へ行く者は国賊だッ

 「忠霊公葬」論者の思想がよりハッキリ出るのが、彼らに反対した仏教界へ批判においてである。「忠霊公葬」論の急先鋒、大東塾の影山正治は、次のように書いている。

一、聖職奉公のための戦死は生命奉還である。畏こみて大君の辺にこそ死ぬるのである。死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉るのである。若しその霊を阿弥陀仏に托して西方十万億土に送り釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが、霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは、忠節どころか恐るべき国体叛逆の大罪である。この様な相対忠は絶対に否定されねばならぬ。これでは断じて「天皇陛下万歳」にはならぬ、即ち「天皇機関説」の極致にほかならない。(「陸軍葬再論」『忠霊神葬論』大東塾出版部、昭和十九年七月)

 この一文が興味深いのは、影山が死後の霊魂の存在と極楽浄土の実在をマジで信じ込んでおり、戦死した霊魂の行く先が気になって仕方がないところにある。ひとたび〈英霊〉となったならば、「死して忠霊なお大君の辺にまつろい、以て無限に皇運を扶翼し奉」らなければならないというのは、彼らに共通するイデオロギーで、「極楽行き禁止」なのであるから、死ぬまで&死んでからも、〈英霊〉は忙しくてたまらない。これでは皇国臣民はうかつに死ねないのである。
 ともかく、極楽浄土に赴いたホトケに「国家叛逆の大罪」と烙印を押すこの熱情は一体何なのだ? たかが葬式のやり方といえども、それにかける熱情は大変なものである。

 

早川タダノリ『神国日本のトンデモ決戦生活』より

神国日本のトンデモ決戦生活―広告チラシや雑誌は戦争にどれだけ奉仕したか

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神国日本のトンデモ決戦生活 (ちくま文庫)

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