藤原正彦『日本人の誇り』の細かい日本スゴイ・テクニック

 原稿を書くために藤原正彦『日本人の誇り』(PHP新書、2011年)を読んでいて、こんな一節に出くわした。
 著者がお茶の水女子大学で教鞭をとっていた時、一年生対象の読書ゼミをうけもったという。そこで「日本はどういう国と思いますか」という質問したところ、ネガティブな答えしかかえってこなかった。
藤原センセイは「日本中のほとんどの若者が自国の歴史を否定しています。その結果、祖国への誇りを持てないでいます。意欲や志の源泉を枯らしているのです」とまとめた上で、さらにつぎのように質問したという。

「それでは尋ねますが、西暦五○○年から一五○○年までの十世紀間に、日本一国で生まれた文学作品がその間に全ヨーロッパで生まれた文学作品を、質および量で圧倒しているように私には思えますがいかがですか」
これで学生達は沈黙します。私はたたみかけます。
「それでは、その十世紀間に生まれた英文学、フランス文学、ロシア文学、をひっくるめて三つでいいから挙げて下さい」
彼女達は沈黙したままです。私自身、「ベーオウルフ」と「カンタベリー物語」くらいしか頭に思い浮かびません。
私は彼女達にさらに問いかけます。
「この間に日本は、万葉集古今和歌集新古今和歌集源氏物語平家物語方丈記徒然草太平記……と際限なく文学を生み続けましたね。しかも万葉集などは一部エリー卜のものではなく、防人など庶民の歌も多く含まれています。それほど恥ずかしい国の恥ずかしい国民が、よくぞ、それほど香り高い文学作品を大量に生んだものですね」


これ、ツッコミどころ多数すぎて……。ヨーロッパ文学の専門家の方のご意見を待ちたいところですが、門外漢であっても、

・「西暦五○○年から一五○○年」という限定はなぜなんですかね?
・「全ヨーロッパで生まれた文学作品」にしてしまってアジアをはじめその他の地域を外しているのはなんでだろ?
・「全ヨーロッパ」と言いつつ、「英文学、フランス文学、ロシア文学」にしぼり、イタリア・スペインそのほかを外しているのはなんでだろ?
ラテン語のものはどこにカウントされるんでしょうか?
・「頭に思い浮かびません」……日本の古典は初等中等教育で教えられるから「知っている」。けれども日本以外の地域の中世文学はどこまで習うのかという「教育の枠組み」は勘案されていますか?

などの疑問が浮かんでくるんですよね。
 なんか細かいテクニックを使ってて、ちょっとびっくりしたんですよ、コレ……

(そもそも「源氏物語平家物語」という並びにすごい違和感があるんですが)