「私は貝になりたい」の原作部分

 映画やドラマになった「私は貝になりたい」だが、紆余曲折を経てその「原作」とクレジットされるに至った、加藤哲太郎による「遺書」が掲載された『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』(飯塚浩二編、光文社、1953年)を入手した。加藤は本書で「志村郁夫」の筆名を使い、さらにこの「遺書」も「志村」が獄中で拾った「赤木衛生曹長」のものであるとしている。けれども、詳細なスガモ獄中での描写などからして、加藤自身の実体験が反映されたものであり、ことに「私は貝になりたい」の一節は、加藤自身の叫びであったということをみてとることができるだろう。

 「私は貝になりたい」の一句はあまねく知られているが、その前後は次のように綴られていた。

 天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令として、どんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅諭の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として、軍務をなまけたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか? 私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは、支那の最前線でいただいた七八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長いあいだの苦しみを払いました。ですから、どんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんど日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません。
 けれど、こんど生まれかわるならば、私は日本人になりたくはありません。いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生まれません。人間にいじめられますから。どうしても生まれかわらねばならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にヘバリついて何の心配もありませんから。何も知らないから、悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなることもないし、兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもないし、どうしても生れかわらねばならないのなら、私は貝に生まれるつもりです。

『あれから七年』112-113頁より