「反対するなら代案を出せ」でダメになってしまった運動

 もはや死語となったが、かつて「同情するなら金をくれ」という流行語があった。これは簡単に言って「カネを出さないおまえに同情なんかされたくねえよ」という非常に甘えきった、拗ねた物言いなんだが、この語と前後してはやった「反対するなら代案を出せ」にもまた同様の腐臭を感じざるを得ない。


 「反対するなら代案を出せ」というイデオロギーは、1992年のPKO法案のときに言われはじめたように記憶している。
 PKO反対派は《「国連の下での和平」に日本が自衛隊で介入する》という枠組み自体に反対していたのに、代案を強要されることによって、安保理で作られた既存のカンボジア和平の土俵にまんまとのせられた。のせられたのは、これまで平和運動をひっぱっていた社会党(当時)・共産党で、彼らはズブズブと「国連の下での和平」を認めることとなった。「国連中心主義」とかと言い訳しながら、ね。(その結果、映画『ブラックホーク・ダウン』で有名な国連のソマリア介入で米軍が虐殺事件を引き起こした時、抗議することもできなかった。)


 おまけに「民間人を派遣しろ」とか「自衛隊を平和協力隊として派遣しろ」とか、およそ現実味のない、観念的な代案づくりに精を出すハメになって、もともと何に反対していたのかさっぱりわからなくなったのですね。現実味がないのはアタリマエで、政治権力を握っていない者ができあいの国家機関をこう使えと「代案」と言う名の「ご提案」を政権に提供しても、ハナからそんなの採用されるワケがないのです。いや、採用されたとしても、「そうですね民間人もいいですね。だったら安全確保のためになおさら自衛隊が必要でしょう」となる。自衛隊の派遣を「代案」で止められるわけがないのです。  
  

 最近、再びよく耳にする「反対しか言わない」という非難もまた同じ。これはまったく内容空疎なレトリックであって、為政者が恣意的に設定した問題解決の枠組みに反対者が「乗ってこない」ことへの泣き言にすぎないですよ。そんなのに耳を貸す必要はまったくないと思う。



 原発も同じだと思うんですよ。
 新エネとか再生エネとかの「代案」を反原発派がいくら提案したって、全力で原発をやりたい人は「ああ、それもいいですね」と言うだけじゃないかな。下手すると、原発の隣に太陽光パネルとかおかれちゃって「ご提案をありがとうございました!」でおしまいだと思う。



 気がつけばもう20年前のことですが、野田首相の「大飯原発再稼働」演説に接して、学生の頃に不思議に思っていたことを思い出した。