「日本が好きなだけなんだよ」ウホッ、オレもオレも!

最近、愛国者さんたちのブログを巡回するのをすっかりおこたっていたのですが、あるMLで紹介されていた「日本が好きなだけなんだよ」というブログは、久しぶりにシンプルかつストレートな大東亜戦争論ですこし楽しめた。

学徒出陣やひめゆり部隊、原爆などは確かに悲劇かもしれないが、白人の謀略によって、石油を始めとする重要資源が禁輸にされ、近代国家として戦争せざるを得なかった、当時の日本の窮乏は頭から無視されている。
日本の夏休み恒例番組 反日戦争ドラマ

このへんは、援蒋ルートとか仏印進駐とかやりはじめると長くなるので省略。で面白いのはこれ以降。

日本が戦わなければ、東南アジアは開放されず、現在の人種平等の世界は訪れず、日本人は東南アジアやアフリカの人々のように、白人の奴隷になっていたかもしれないのにである。

 古くは戦時中から、戦後は林房雄大東亜戦争肯定論』を経て、95年の『アジア共生の祭典』あたりでクローズアップされてきた大東亜戦争=アジア解放戦争論の典型例と言える。竹内好とも少し重なるのかな。
 ともあれいつも不思議に思うのが、こいつらのきわめて肯定的な現状認識で、かのブログ主も「現在の人種平等の世界」とか言っている。え? 世界はホントにそんなパラダイスなんすか? そんなパラダイスを大東亜戦争で実現したんですかコノヤロウ、という感じであります。こいつの脳内お花畑には、すっぽりと戦後のアジア現代史が欠落しており、さらにいえば日本人が鎖国をやる前から続いているアジアの人々の反植民地闘争・反植民地戦争の歴史が、あたかもまったく何もなかったかのようである。
 とくに「日本人は東南アジアやアフリカの人々のように、白人の奴隷になっていたかもしれない」という言い方も、重畳する錯認の産物でありまして、日本人て「白人の奴隷」だったじゃん、今も。しかしさらによく考えてみると、「白人の奴隷」ってヘンな表現だよな。こいつの人種主義の端的な表現だよな、とわかるのであります。 

 それにしても、――これは声を大にして言いたい――「東南アジアは開放され」という変換ミスみたいな表現をホントによく見かけるのだが、これなんか間違ってない? 戦前〜戦後にかけて「プロレタリア開放」とかそういう用例はあるし実際目にしたこともある。これは誤植ではない。けれども、あくまでも本意は「開け放つ」方であって、鉄鎖や植民地主義のくびきから「解き放つ」のではないわけだ。「東南アジア開放」だと、なんか「市場開放」みたいな、欧米帝国主義の経済ブロックをこじ開けたぜ、みたいなニュアンスになるよ。ちゃんと「解放」って書いたら? アジア主義の志士のみなさんが泣くぞよ。

自分には特別、霊能力があるわけではなく(不思議な体験は幾つかあるが)、それ程、信心深いわけでもないが、2〜3年前から続けている習慣は、朝晩、自分の食事を自分の身内や祖先の霊、大東亜戦争で亡くなった英霊達に供え、1分くらいしたら膳を下げて食べるようにしていることである。(霊的な存在は一瞬で供え物を賞味することが出来るらしい)

ブログ主にはこんな一面もあるようだ。ご先祖さまも英霊の皆様も、たまにはこいつの前に姿をあらわして「きっさまそれでも日本人か」ビビビビン(by 水木しげる)と一喝してやった方がよいのではないか。