歴史修正主義と「国民の物語」

id:D_Amonさんのブログで知ったのだが、「歴史修正主義」の定義をめぐって論争が起こっているようだ。政治学的定義は苦手な領域なのでなかなか参戦できないのだけれども、(今は亡き)「新しい歴史教科書をつくる会」が掲げた「国民の正史」「国民の物語」について、知人の編集者から興味深いテキストを教えてもらったのでここに紹介します。



歴史教育と「国民の物語」

穴木黒助



「国民、国家、ないし運動のイデオロギーの一部となった歴史は、実際に民衆の記憶に貯えられたものではなく、その役割を担った人々によって、選択され、書かれ、そして制度化されたものである」(E・ボブズボーム)



新しい歴史教科書をつくる会」理事として蠢動している坂本多加雄(早川註:故人)は、その著書『歴史教育を考える』(PHP新書、1998年)で次のように述べている。

歴史教育には子供たちに歴史的な事実を知らせるという使命があるが、そうした歴史的事実とは、オーソドックス(正統)な歴史に不可欠な事項でなければならないということである」
「具体的にいえば、たとえば聖徳太子が登場しなかったり、関ヶ原の記載がなかったり、あるいは明治維新が欠落しているような歴史教科書は、誰もオーソドックスな日本史であるとは思わないだろう」
「こうしたオーソドックスな日本史のイメージはいかにして出来た」のか?
「日本史全般の記述のあり方に関していえば、いわゆる『日本史』の内容を自ずから定めるような伝統が連続的に形成されてきた」
「(明治以降の歴史書をはじめとして)どのような人物を取り上げ、どのような事実を取り上げるのか、そして、それをどのように記述するのかというオーソドックスな歴史の伝統が培われてきたのである」
「従って、子供たちが読む歴史教科書を書くということは、われわれの心の内に継承された歴史記述の伝統を確認するということを意味する。われわれの頭の中にあるオーソドックスな歴史のイメージを、改めて文字にしていくということに他ならない」


「オーソドックスな日本史」とは何か
 「われわれの頭の中にあるオーソドックスな歴史のイメージ」……と言われるとき、あなたは一体どのような「歴史」を思い浮かべるだろうか。多くの人々は、小・中・高校の学校教育の中で教えられてきた「日本史」、それも教科書における叙述の流れをイメージするに違いない。「聖徳太子が登場しなかったり、関ヶ原の記載がなかったり、あるいは明治維新が欠落しているような歴史教科書」じゃあ、キチンとした日本史を教えたことにならないよ……坂本はこうした“共通感覚”に訴えながら、彼らが書こうとしている「新しい歴史教科書」が、そうした常識的かつ正統的な「日本史」、つまり「オーソドックスな日本史」であるかにおしだそうとしているのだ。
 しかし「われわれの頭の中にあるオーソドックスな歴史のイメージ」なるものが、なにゆえに「オーソドックス(正統)」なのであるのかと問われれば、誰しも言葉に詰まるに違いない。なぜならその“共通感覚”は、ただ単に自分がかつて習った「日本史」像を当然のものとしてうけとめ、それを彼の叙述に勝手にアテハメることによって成り立っているものにすぎないからだ。
 それでは坂本も自問自答しているように「こうしたオーソドックスな日本史のイメージはいかにして出来た」のであろうか? この問いに対して坂本は上掲のように、明治以降の歴史書をはじめとして「どのような人物を取り上げ、どのような事実を取り上げるのか、そして、それをどのように記述するのかというオーソドックスな歴史の伝統が培われてきたのである」と、きわめて曖昧に答えている。
 近代歴史教育が日本においては明治期に開始されたのであるから、そこから説き起こすのは当然としても、この明治以降の歴史教科書の叙述における「正統」とは一体何なのか。「どのような人物を取り上げ、どのような事実を取り上げるのか、そして、それをどのように記述するのか」という選択の基準は一体何であったのか。そしてその「正統な日本史」叙述の伝統に一貫するものとは何なのか。ここを曖昧にしたまま、その「オーソドックス」ぶりを無批判に肯定するところに坂本の詐術はあるのだ。


天皇歴代記としての出発
 日本近代における歴史教育、なかんずく「日本史」教育は、明治五年の学制発布とともに開始されたことはいうまでもない。このときに文部省出版の歴史教科書として採用されたものが下級用初歩の『史略』(明治5年刊)と上級用の『日本略史』(明治8年刊)であった。この『史略』は巻一皇国、巻二支那、巻三・四西洋という構成をとっていた。巻一の皇国編は、最初は神代として天御中主神から天照大神、三種神器、神勅、天孫降臨が列挙され、ついで人代として神武天皇から始めてすべての天皇を項目としてあげ、その歴代によって日本の歴史を記述し、明治天皇まで122代に及ぶ天皇歴代史となっている。
 また上級用の『日本略史』においても基本的な構造は同様であった。例えば「第十七代仁徳天皇と申す応神天皇の御子なり民の貧きを知て三年租税を免す」(『史略』)「第百十三代、東山天皇霊元天皇の子ナリ、……天皇在位二十三年ニシテ、位ヲ、皇太子ニ譲リ、是ノ歳崩ズ、時ニ宝永六年ナリ、年三十五」(『日本略史』)といった記述がえんえんと続くのである。また、天皇・皇族以外には、和気清麻呂菅原道真北条時宗楠木正成豊臣秀吉……などが「忠臣の義士」として挿絵入りで重点的にとりあげられ、先に挙げたような歴代天皇史の本文中にもりこまれていた。
 このように最初の文部省刊行による歴史教科書が天皇歴代史の形をとっていたことは、いわゆる「日本史」が(当時は「日本史」として確立してはいなかったとはいえ)あくまでも“天皇の歴史”として認識されていたことを意味する。
 豊臣秀吉などの人物は、その天皇の歴史と「忠臣」という基準で交差することによって「日本史」にその名を挙げられたのにほかならない。この思想は、さまざまな紆余曲折を経ながらも、敗戦まで日本の歴史教科書の底流に流れる“伝統”となったのである。


「教学聖旨」を画期とする転換
 さて、明治12年の「教学聖旨」ならびにそれを具体化した明治14年の「小学校教則綱領」によって、天皇制国家は国民教育における基本理念を確立し、以後『史略』『日本略史』に見られたような天皇歴代史的な叙述形式は一定程度改変されることとなった。
 この「教学聖旨」の大意は“教学の要は仁義忠孝を明らかにすることが基本で、それにつづいて知識才芸を究めもって人道を尽くすことにある。これは祖訓国典の大旨であり、したがって小学校においても仁義忠孝の教えを幼少のときから強く印象づけて、それを培養しなければならない。小学校の教育としては古今の忠臣義士孝子節婦の画像や写真を示し、その行事の概略を説いて、忠孝の大義を頭脳の感覚させるようにすべし”といったものであった。
 坂本のいう「国民意識養成のための歴史教育」という観点からこの転換を眺めると、非常に興味深い。というのも、明治初年における天皇歴代史的な歴史教科書叙述の対象が「天皇」であったのに対し、その思想を継承しつつも同時に尊王愛国の精神の育成を基準として、「古今の忠臣義士孝子節婦」すなわち「忠孝の大義」に生きた“忠臣モデル”を国民の典型として提示することによって、「国民意識養成」をヨリ実践的に追求しようとしているのである。
 こうして、天皇の歴史であることにはかわりはなかったといえ、「明君・良相・英将・賢婦・碩学・高僧の美行善言」をもりこんだ「国民の物語」が創出されてゆくこととなった。またこれにしたがって、従来の天皇歴代史的な教科書叙述形式は、上古・中古・近代の三時代に区分し主要事項を掲げた紀事本末体へと転換を遂げ、そしてその基本的な叙述形式が、それ以降引き継がれることとなった。


「日本史」教科書の確立
 明治36年に文部省は日本歴史の教科書を国定とする方針を定め、同年10月に最初の国定教科書『小学日本歴史』が発行された。編集の方針によると、歴史上各時代を代表する人物を選んで課題とし、それらの人物と関係した歴史的事実を記す方法をとったという。これはそれ以前の日本史教材の形式を基本的には踏襲したものであった。
 この『小学日本史』では次のような課題名が掲げられている。

天照大神」「神武天皇」「日本武尊」「神功皇后」「仁徳天皇」「物部氏蘇我氏」「聖徳太子」「天智天皇藤原鎌足」「聖武天皇」「和気清麻呂」「桓武天皇坂上田村麻呂」「伝教大師弘法大師」「朝臣の栄華と武士のおこり」「源義家」「承久の乱」「元冦」「北条氏亡ぶ」「建武中興」「南北朝」「足利利満」「応仁の乱」「英雄の割拠」「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」「徳川家光」「徳川綱吉」「新井白石」「徳川吉宗」「尊王論」「外艦の渡来と攘夷論」「大政奉還明治維新」「台湾征伐と西南の役」「憲法発布」「明治二十七年戦役」……。

 いささか冗長となったが、このように挙げてみると、現代の「日本史」教科書にも継承される課題が、この第1期国定教科書でほぼ確立されたことがわかる。この場合特徴的なのは、挙げられている人物が上古においては天皇なのに対して、平安時代から明治維新にいたるまでには天皇が課題名として挙げられていないことである。
 明治初年の教科書にはあらゆる悪行の限りを尽くした天皇であれすべてあげていたのであるが、『小学日本史』においてはあくまでも「歴代天皇の盛業を教える」という要旨によって天皇が選択され、その「盛業」が延べられているのだ。したがってそこからは

武烈天皇 性残酷殺すことを好む。凡そ諸々の惨刑は皆な自ら臨見る。妊婦刳き其の胎を観る。宮女に馬と交わらしめ。人の指甲を脱し、其の徒手にて薯蕷を掘らしめ……また宮人と酒に沈面し、淫逆度なし」(『訓蒙皇国史略』1873年[明治6年])

といった記述は当然にも消されているのである(濤川栄太『教科書から消された日本人』に是非とも掲載してほしいものだ)。
 さらに言えば、当時の文部官僚にとってこの武士階級の台頭と朝廷の没落の期間は、連綿たる皇国における「断絶」としてまずは感覚されたこと疑いない。けれども、鎌倉幕府から江戸幕府にいたる武家政治を「忠臣義士」「忠孝の大義」(そしてその裏面としての「逆臣賊子」)の「物語」へと転化させ、それを明治以降創出された「皇国の物語」に回収することを通じて、天皇の歴史としての「日本史」の連続性を付与しようとしたのであろう。
 ともあれ、上に見たような『小学日本史』は、“日本は天皇の祖先である天照大神によって開かれ、歴代の天皇の治績によって国家が発展したが、その間に忠良賢哲が天皇のため国家安泰のために活動し、神功皇后三韓征伐から明治二十七年戦役に至までつねに外征には勝利をえてきた”という「物語」を骨子として構成されたものであった。そしてこの「物語」が、その後の(国定歴史教科書を手段とした)国民教育=国民意識の形成の基調をなすものとして確立されていったのである。

 
国体明徴のための歴史教育
 大日本帝国が、第一次世界大戦を経て満州事変に突入するころに刊行された第五期国定歴史教科書(1930年[昭和15年])は、上に見てきたような「天皇の歴史」としての思想が一層強化され、「国史」教育の目的が「国体明徴の透徹」にあると明確に定められた。編纂趣意書には教科書改訂にあたっての主眼が、次のように述べられている。

「第一、皇室中心の態度を徹底せしめ、国体観念を愈々明徴ならしむること。第二、敬神崇祖に関する教材の増補を図ること。……(中略)……現代の世界情勢の由つてくる所を明らかにすること。わが国の一貫せる外交方針を明らかにし、その自主的態度を強調すること。わが国の東亜並びに世界に於ける指導的地位の自覚を促すこと。挙国一致皇運扶翼の精神を強調すること」。

こうした観点から、例えば「聖徳太子」の記述は「太子の対隋外交における自主的態度、国体明徴の精神を強調する」であるとか、「後醍醐天皇」は「天皇隠岐遷行の叙述を省略し、勤王の記事を増補する」、「織田信長」は「信長の勤王について増補し、正親町天皇の項を修正する」といった具合に、あらゆる叙述について勤王・皇室中心の記事が増補され、逆にそうではない部分は削除されてゆくこととなった。
 さらに、第1期国定教科書ではほとんど省略されていた鎌倉時代以降の天皇名が大量に復活させられた。このことについて、当時の文部省図書監修官は“この修正本は一君万民の立場から史実を批判し、従来の武家政治や摂関政治についての叙述を再吟味して改訂を加えた。摂関政治にしても武家政治にしても、これらはその時勢に応じて(朝廷の)政治の徹底しなかったのを補うために生じた変態政治である。いつの世にも政治の大本は朝廷であり、天皇にあるので、わが国体の本義は微動もしなかったと教えるべきだ”と述べている。
 このようにほとんど暴力的に皇国の連続性の「物語」は回復され、それが「国体明徴」として正当化されてゆく。この文部官僚の「国体明徴の物語」と、「日本国家の継時性」を論証するために「律令体制−明治憲法日本国憲法に一貫する象徴天皇制度」(『象徴天皇制度と日本の来歴』)を説く坂本の「日本の来歴・国民の物語」とがダブって見えてくるではないか。「権力の正統性原理」としての「象徴天皇制度」は“微動もしなかった”と言う坂本イデオロギーの祖型は、まさにここにあったのである。
 この第五期国定教科書は、決して「皇国史観に蹂躙された異様な時代」の産物と片付けられるものではない。それは、「皇国史」として始まった明治以降の「日本史」教育の到達点でありまたその完成であるといえよう。坂本の言うように、歴史教育が「国民意識の養成」を主眼とするための「物語」であるとするならば、「国体明徴」という国家意識の涵養をその明確な目的として定立し、あらゆる細部にわたってその目的が貫徹されたこの第五期国定教科書こそが、その坂本式「物語」の典型にほかならない。


とりあえずのまとめ
 以上、明治以降の「日本史」教科書における叙述の変遷の素描を(きわめて簡単かつ雑駁であるが)試みてきた。紙幅の関係でもはや多くを述べられないので、感じたことをいくつかまとめておく。
 まずは、私たちが思い描く“聖徳太子関ヶ原合戦明治維新”が欠落していないような「オーソドックスな日本史」像が、実は皇国民の育成を目的とする戦前からの「天皇の物語」の中で歴史的には形成され・確立されてきたということを、改めて確認すべきであろう。こうした叙述形式の基本線は、いまだ文部省の統制下にある戦後歴史教育においてもまた(姿を変えて)継承され、再生産されているのである。
 さらに坂本の言う「どのような人物を取り上げ、どのような事実を取り上げるのか、そして、それをどのように記述するのかというオーソドックスな歴史の伝統」なるものの内実もまた明らかではないか。それはまさに「盛業」をなした天皇であり、その統治を支えた「忠臣義士孝子節婦」であった。
 「国民の物語」とは「国家の物語」であり、かつ「オーソドックスな日本史」においては「天皇の物語」を意味した。この「天皇の物語」と交差してはじめて、その人物は文字通り“歴史に名を残す”のである。そうした人物群は、「国民」の典型=“忠臣モデル”として、歴史教育の中で提示された。注目すべきなのは、その“忠臣モデル”では、彼らの生い立ちから立身までの「物語」が、意識的にちりばめられていることである。
 そこで目指されたのは、まさに「共感」であった。子供たちに、そうした“忠臣モデル”の「物語」と自己(の“行く末”)とを心情的に同一化させることをつうじて、単なる典型の提示だけではない積極的な“効果(=皇化?)”を狙ったのにほかならない。
 つけくわえておくならば、1937年(昭和12年)の『国体の本義』(文部省)においては、日本における「国民的結合の力」は、「敬神崇祖と忠の道の完全な一致」によって実現されると述べられている。つまり天皇イデオロギーを核とする国民統合の、そのイデオロギー的客体面は万世一系天皇神話であり、その主体面は「忠」すなわち積極的服従であったことを考えるならば、戦前の歴史教育においてはその両軸がきわめて巧妙に盛り込まれていたことがわかる。この構造を「物語中心の国民の教化」として特徴づけたのが、皇国史観のイデオローグ・平泉澄であったことも忘れてはならない。
 もはや紙数が尽きた。こうした「正統な日本史」「自国の正史をとりもどす」といった、坂本多加雄や「新しい歴史教科書をつくる会」の考え方に対しては、「一体だれのための、何のための『正史』なのか? 『正史』はたったひとつの正統化された「国史national histry」を作りだすことで、『国民』のあいだにある多様性や対立をおおいかくす。彼らは誰の側に立っているのか」「『書かれた歴史』の書き手とは誰か。たとえば『正史』とは誰のためのもので、誰が書き手として権威を与えられるのか。……『正史』が「公共の記憶public memory」であるとされるとき、その公共の『われわれ』のなかに誰が含まれ、誰が含まれていないのか」(上野千鶴子「『記憶』の政治学」)といった、しごくまっとうな批判がなされてきた。
 まさにそのためにも、「オーソドックスな日本史」=「国民の物語」から、何が典型として称賛され、何が排除されてきたのか。さらにそこで展開されている「物語」構造の精緻な分析と批判がなされなければならないだろう。なぜなら、私たちはあまりにも戦前を「忘れて」いるのだから。(1998年5月擱筆)


参考文献 海後宗臣著『歴史教育の歴史』(1969年)、福田義也著『教育勅語の社会史』(1997年)