メモ:三浦瑠麗氏の「大日本帝国が本当の意味で変調を来した二年間」のナゾ


■炎上した三浦氏のコメント
 2017年8月12日、東京新聞で特集記事「気分はもう戦前? 今の日本の空気」が掲載された。この記事は「今の社会に、戦前のかおりがしないか」という問いかけで構成されたもので、ここに国際政治学者・三浦瑠麗氏が登場していた。「全否定は過去見誤る」と題されたコメント記事で、三浦氏は「「戦前回帰」を心配する方々が思い描く「戦前」のイメージに不安を覚えます」と嘆いてみせた。
 彼女によると「大日本帝国が本当の意味で変調を来し、人権を極端に抑圧した総動員体制だったのは、一九四三(昭和十八)〜四五年のせいぜい二年間ほどでした。それ以前は、経済的に比較的恵まれ、今よりも世界的な広い視野を持った人を生み出せる、ある種の豊かな国家だった」のだそうだ。
 すぐにわかることだが、敗戦前までの「人権抑圧」は、何も1943年にはじまったわけではない。1925年の治安維持法の制定以降の共産党員や労働運動に対する苛烈な弾圧は何だったのか。さらに1938年の「国家総動員法」制定以降の体制は何だったのか――いったいこの人は歴史の何を見ているのだろうかと、少なからぬ人が呆れ返ったようだ。すでにこの箇所については、多くの批判が寄せられているので、ここでは繰り返さない。
 ここで生暖かく考察すべきなのは、彼女が前提としている〈基準〉のアヤシサなのである。


■「大日本帝国」像の不可解さ
 「大日本帝国が本当の意味で変調を来し」という表現は、「変調」をきたしていない〈あるべき大日本帝国〉像を歴史に投影し、ラスト2年間をそこからの逸脱として切断してみせるしぐさだ。まずこの表現からして、思い込み主導のひとりよがりな香りが濃厚にたちこめている。おまけに「経済的に比較的恵まれ」ていたのは誰か・どの階級なのかを曖昧にしたまま、帝国主義植民地主義グローバリズムを「世界的な広い視野」などと言い換えてみせるのだから、三浦氏の特殊技能にはまことに感心するばかりだ。
 では、ここまで肯定的に評価されている彼女の脳内にある「大日本帝国」イメージは、歴史的にはどの段階を想定しているのか。三浦氏は東京新聞のコメントについて、自身のtwitterアカウントでいくつか補足している。その中に、次のような一文があった。
改憲の議論を見ても、国家観、歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人が育たなくなっていることが分かる。残念なことです。台湾の李登輝・元総統を見てください。困難な状況下で骨太の政治理念を養い、民主化を主導した名指導者ですが、彼を育てたのは戦間期第一次世界大戦と第二次大戦の間)の日本であり、戦後の日本ではないのです」。
 李登輝元総統は1923(大正12)年生まれ。三浦氏にとって彼は「大日本帝国」が生み出した「今よりも世界的な広い視野を持った人」のようだ。ここから、三浦氏がイメージしているのは、どうやら1920年代から1930年代にかけての大日本帝国の姿であったことがわかる。


帝国主義が「躍動的に成長した時代」
 この時期の日本経済は、重化学工業生産のいちじるしい拡大、生産および資本の集中、銀行の集中と巨大化、そしてそれを可能とした植民地(台湾・朝鮮)・満洲・南洋への活発な商品=資本輸出が特徴だ。第一次世界大戦以後のアジアにおける列強の力関係の変化を活用して、国内的にも国外的にも(後発であるとはいえ)帝国主義国として一定の確立を達成した時期であった。この資本主義の高度化と同時に、労働運動の激烈化も同時に進行したのである。
 こうした日本帝国主義確立期のビヘイビアについて、三浦氏は以前、小川榮太郎との対談で次のように述べていた。
「日本の歴史を振り返ると、躍動的に成長した時代がいくつかあります。満州の獲得もそうだし、戦後の高度経済成長もそうでした」「戦前の日本にとっての満州、戦後のアメリカ市場はフロンティアでした。外部条件としてのフロンティアの存在が、日本に活力と成長をもたらすのではないかと考えます」(「近代日本の戦争とフロンティア」『文藝春秋SPECIAL』2016年冬号)
 「フロンティア」ということで満洲と戦後のアメリカを並べて見せているあたり、商品輸出市場としてしか植民地の意義を理解しておらず、収奪と利潤獲得のしくみが違うことも眼中にはないようだ。こうした帝国主義的な対外発展を「躍動的な成長」と表現できる三浦氏の感覚は、モロにイムペリアリストですねえ。


■「総動員体制」理解のなかみ
 これまで見てきたようなきわめて肯定的な「大日本帝国」像をもとに、三浦氏は「大東亜戦争」末期を「変調」として指弾してみせるのだが、彼女が「人権を極端に抑圧した総動員体制だったのは、一九四三(昭和十八)〜四五年のせいぜい二年間」(って、それは3年間ではないのか?)と区切ってみせる基準が実はたいへん不可解なのだ。
 三浦氏は自身のtwitterアカウントで、この部分についてつぎのように補足を加えた。
「新聞で一括りにされる戦前・戦中には様々な時期がありました。語られ易いのは総動員で大学生らが出陣した最後の2年。その2年を元に政府と国民の関係があたかもずっとそうだったように措定してしまうのが誤りなのです」。……この補足があったとしても理解は困難なのだが、どうやら三浦氏の言う「総動員体制」とは、学徒出陣のような根こそぎ動員をメルクマールとするもののようだ。
 彼女の博士論文をまとめた『シビリアンの戦争』(岩波書店、2012年)には、〈政府・国民・軍〉という三つのアクターに関する図解が出てくる。

 ここでは〈国民〉の戦争における役割として「戦闘要員の提供 支持・不支持」が割り振られている。先の三浦氏の「補足」と合わせて考えると、彼女において総動員体制とは、どうやら「国民」が実体的にまるごと戦争に参加することがその完成のメルクマールとなっているようだ。その勝手な基準から、銃後の学生や女性までもが根こそぎ動員された1943年以前・以後を、彼女は切断してみせているのではないか??
 戦時下の総動員体制と言えども一片の法律や訓令で完成するものではなく、それは長い形成過程を持っている。この過程の始点は、たとえば国内の帝国主義戦争に反対する運動の徹底的弾圧であったり、国家総動員法の制定であったり、戦時体制の構築を可能とするための大政翼賛会の成立であったりと、論者のアプローチによってかわってくる。
 とはいえ、総動員体制の「完成」以前=その形成過程を、きわめて肯定的に「経済的に比較的恵まれ、今よりも世界的な広い視野を持った人を生み出せる、ある種の豊かな国家だったと考えています」といい切ってしまうのは、もはやデマゴギーの域に達していると言えよう。


■「戦時」イメージの貧困
 しかし他方、彼女が指摘している「護憲派」・左派の側の「戦時」イメージの貧困についても言及しておく必要がある。
 三浦氏は「「戦前回帰」を心配する方々が思い描く「戦前」のイメージに不安を覚えます」(東京新聞前掲記事)、「そもそも戦前の通俗的イメージが悪すぎる」(2017年8月12日のtwitterでの補足)と言う。彼女が得意な〈左右を等しく批判しています〉ポーズなわけだが、そう言う彼女じしんの「戦前のイメージ」が悲惨なものであることはすでに見てきた。けれども「戦前回帰」と特徴づける側も、歴史的アナロジーの方法について検証する必要がありはしないだろうか。
 さらに「戦時中」イメージが、ややもすると20世紀の総力戦の期間に一面化されていることにも危惧を覚える。21世紀の日本に生きる私たちにとって、朝鮮戦争ベトナム戦争から今日まで、アメリカの主導する戦争に自国政府が協力してきた歴史を経験している。とりわけ湾岸戦争以降は、財政的のみならず、軍事的にも自衛隊の海外派兵が恒常化するなかで、わたしたちは事実上の〈戦時下〉を経験しているはずなのだから。